わかってもらえないということ | 自由に、自分らしく、幸せに生きよう 光花のブログ

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自分を取り戻すためにやっていることや、自分を使って実験した結果、日々の生活の記録など、思い付くままに書いています。

こんにちは。光花です。


これまでの人生を振り返って、いろいろなことを思い返していると、なんとも複雑な気持ちになってくる。


一見するとごく普通の、一般的な家庭で育っているので、外からはその内情がわかりづらく、理解されにくい。


その家庭の中で育ってきた当の本人である私でさえ、気付けなかったのだから当然と言えば当然だ。


明らかな虐待であるとか、ネグレクトなどと違い、本当に分かりにくい。


けれど、確実に生きづらいのだ。


友人などに、いくら話しても、なかなか分かってもらえない。


完璧な親なんていないんだから、とか、どこの家もそんなものだよ、とか言われてしまう。


でも苦しいものは苦しい。


そして、私は、その苦しさが一体どこから来ているものなのか、謎のままにはしておけない性分なのだ。


私からすると、なぜ、訳も分からず、苦しいままで居続けて平気なのか、そちらのほうが不思議なくらいだ。


そこまで深く考えたことないな、とよく言われるが、性分なのだから仕方ない。


余計な気苦労をしているのかもしれない。




そもそも親の資質と子供の資質との違いや、相性の合う合わないもあるだろう。


それに、その人の感受性の強さにもよるだろう。


私の場合、あの家の人たちと、合わなかったということだ。



人は生まれる前に、自分の両親を決めて生まれてくると、何かで聞いたことがある。


もしそれが本当であるのなら、私はあえて、私の本質とは合わないような、本当の私でいられなくなるような両親と環境を選んで生まれてきたということになる。


私はある意味、チャレンジャーということになるのだろうか。


一体、どんなことにチャレンジしようとして生まれてきたのだろうか。。。



まさにたった今、ふと浮かんできた。今までの部分と、あまり関係ないことかもしれないが。。。



私がなかなか人にわかってもらえないのは、私が人のことをわかろうとしていないからだ。


わかってもらおうとばかりしているから、かえってわかってもらえない。



私は私として、ゆるぎなくここにいながら、ほかの人のことをわかろうとすること。



ほかの人のことをわかろうとしても、私は何も失わない。



それなのに、なぜか、負けるような気がしてしまい、ムキになってわかってもらおうとしていた。



わかってくれない親は、自分がわかってもらえなかったから、子供のこともわかろうとしなかったということなのか。


逆に自分をわかってほしくて、必死だったのかもしれない。


私はほんの子供で、本当に無力だったから、家族にどんなに訴えても、わかってもらえないことが、打ちのめされるくらいショックで悲しかったんだ。



それでもいちいち打ちのめされていたら身が持たないから、それに適応しようとして、平気なふりをして、負けないようにしていた。


だから、人のことをわかってあげるのは、負けみたいに思ってしまたのかもしれない。


そんなこと、勝ち負けじゃないのに。


かたくなに、私はわかってあげないけど、私のことはわかってと主張してしたってことか。


笑っちゃう。


これからは私がちゃんとわかってあげようとする姿勢で話を聞いていこうと思う。



わかるかどうかは別として、向き合う姿勢が大事だと思うから。