英語ができなきゃいけない人生に幕引きを


英語ができなくても許される人生を。

 


英語ができなきゃいけないプレッシャーに


苦しんできたのが


これまでの私。


何十年も。


だけど私は、英語が大して出来ない。


子供の頃、幼少期に小学館の習い事で英語を勉強した。


小学生から中学生まで、


親から強制的に公文に通わされた。


幼稚園で英語を始めてしまったばっかりに、


英語を習うことから逃げられない人生になった。


公文で勉強するまではまだ良かった。


学校の宿題や定期テストと被って


睡眠不足続きで死にそうな時はあったけども。



問題は、


親が、「自分の子供は英語ができる」


と思ってしまったことである。


テレビから英語が流れれば

 

「この人発音いい?」


「あなたより発音いいの?」


と必ずと言っていいほど聞かれた。

何十年も。


就活の時期になれば、


勝手にキャビンアテンダントになることを期待された。


希望もしていなければ応募を考えてもいないのに、


「うちの子はあえてスチュワーデスにはならなかったんです。」


とよその奥さんに話す始末。


大人になって仕事に失敗すると、


「英語ができるんだから、

人に英語教えたら?」


と言われる。


「私は、そんなに英語わからないの。

海外とかで本格的に勉強してないんだから、

わかるわけないじゃない。」


英語できるでしょ?の圧に耐えかねて、

そう返したこともある。


するとこうだ。


「そう。それは悪かったねぇ。 


親がしょうもないばっかりに、


英語ができるようになるまで


留学させてやったりできなくて。


でも近所の人にも言われるの。


大学まで出してやったんだから、


親の責任は果たしたんだから、


もう良いんじゃない?」


と言い返される。


英語ができないことも、


私のせいなら、


留学させてもらえなかったから


英語ができない事にしてる私が悪い、


みたいな論調と空気にすり替わる。


別にそんなに留学したかったことなどない。


それは今だからわかる本音だけど。


親からぶつけられるネガティブな感情の圧に、


自分を長年見失って、


「私がダメだ、私が悪い」に取り憑かれていたから。


そしてついでに書くと、


妹名義で借りた奨学金を


「あなたは塾代がたくさんかかってるんだから、

あなたも半分返しなさい。」


と言われたので、


半額私が返したのだから、


私の大学の2年間分の学費は、


実質私が払ったのに、


それもなかった事にされているのが悔しい。


「○○ちゃんは2年分、自分で払ったのよ。

交通費も自分で出してるって。

うちは親が出してあげてるんだから。」


とよく言われた。




英語について、現実をよく考えてみてほしい。


子供の頃に小学館の英会話と公文の英語で、


テレビで英語を流暢に話す人の発音が良いか判断する、


自分の方がその人より発音が良いことが前提にされる、


人様に個人開業で英語を教える仕事ができる、


そんなレベルに到達するだろうか?


そんなわけ、ない。


出来ない人よりは少し、


英語がわかる。


それは事実。


だけど人に教えたり、


正解がわかるほど、


わかるわけがない。


留学だって、


アルバイトで必死にお金貯めて、


1ヶ月がやっと。


留学もしたかったというよりは、


私は英語ができなきゃいけないんだから、


行かなきゃいけないんだ、


という強迫観念のほうが強かった。


1ヶ月の留学で、


なんでも聞き取れて


ペラペラに話せるようになるような


私は天才ではない。


大学では両親や赤の他人の理解では

私は英語を勉強した事になっている。


だけど正確には、


英語を使った教材に触れていただけで、


英語の使い方を習ったり勉強したわけではない。


英会話の練習もした事なかった。


教授がゆっくり丁寧に話す英語を


授業で一方的に聞いていただけ。


「なんで英語で話さないんだ?」


と外国人の教授に怒られたが、


話さないんじゃなくて、


話せなかった。


英会話出来るほどの即時作文力はなかった。


書けと言われたレポートや論文も、


辞書を引きながら


合っているのかわからない英語で


書いただけ。


意味が通じているのか、


本当はどんな書き方が自然な英語に見えるのか、


そんな添削は受けていない。



だから、


道端でいきなり外国人に話しかけられると、


アルバイト時にお客さんに何か聞かれると、


会社で英語の電話を受けると、


運よくわかるときもあるけれど、


わからない時もあるし、


何より、どんな時でもうまく返せなかった。


たどたどしい単語が返せたら良い方。


ジェスチャーで乗り切る時もある。


電話は


「英語がわかる人に代わってください」


と言われる。



私は、


英語ができないんだ、


聞き取れないんだ、


わからないんだ。


確かに一言も聞き取れない人と比べたら、


やっつけで会話をすることは、


出来たかもしれない。


それは英語ができると言うより、


コミュニケーションが


なんとか成り立ってホッとした、


というだけ。


それを本当に英語が全然わからない人に


「ペラペラだ」


「じゃあこういう時英語で何て言うの?」

 

「英語の仕事をお願いしたい」


そういう扱いをされるのは、


本当に辛い。


現に、英語ができる人、


日常的に英語を使う仕事を担う人を探している求人には、


私は受かった試しがない。


面接で、語学力のテストで、

実力不足で落ちてしまう。


その度に、

「英語ができなきゃいけないはずなのにできない私」

という現実にひどく傷ついた。




英語がわからないことが多いから、

英語に向き合うのは本当にしんどいのだ。



英語に触れると、


私は習わせてもらったんだから、


親が期待してお金を払ったんだから、


英語ができなきゃいけない、


聞き取れなきゃいけない、


そんなプレッシャーから、


いつも心臓がバクバクする。


洋画を字幕で見たら、


2時間まともに息ができない。


日本語字幕を見ながら、


英語が聞き取れているか、


英語の使い方が私にも理解できているか、


ずっと神経を研ぎ澄まして、


チェックしてしまう。


どっと疲れる。



そんな本音を少しずつ人に話すようにしている。


それでも


「英語できるんでしょ、自信持って。」


と言うような、


相手の悪意のない言葉に


何度も本心が踏みつけられる気分だった。



私が人生をかけて


できなきゃいけないと思って


向き合ってきたものの本音が、


「本当はできなくて困っている。


正解がわからない。


できるでしょ?と言われても


わからないものは


わからない。


やらなきゃいけないときに


無理に


心をすり減らして


対処しきっただけ。」


とわかった時に、


「英語がわからない私」


として、生きることを


心底許されたかった。


私の微々たる能力で、


目の前のよくわからない英語をなんとかしないといけないのに


「あなたはできる」


なんて、


私の英語の能力を測れない人に


どうして決められなきゃいけないんだろう。


できないのにできることにしたら、


困るのは私なのに。


私が何十年もかけて、


「わからないんだ」


とと言うところで腑に落ちたんだ。


もうそれで、


良しとしてくれないか。


お互いに。




難しい話をしたら甘いものが欲しくなった。