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アインシュタインに出逢ったなら
めちゃめちゃ面白そ~だなぁ~
色々ぶっとんだ話や
研究所、実験を見せてもらえそう
(⁠人⁠*⁠´⁠∀⁠`⁠)⁠。⁠*゚⁠+‥✧⁠



1951年3月14日、72歳の誕生日を迎えたアインシュタインは、カメラマンに笑顔を求められると舌を出した…という有名な写真

Albert Einstein(アルベルト•アインシュタイン/1879年3月14日〜1955年4月18日)
20世紀を代表する物理学者でしょう

彼が提起した論理の中でも「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」は特に有名です

特殊相対性理論と同じ年の1905年に発表した「光量子仮説」も見逃してはなりません

これは『光の発生と変換に関する一つの発見的な見地について』内で、導入したもので1916年に物理学者ロバート•ミリカンの実験によってこの光量子仮説が証明されることで、アインシュタインは1921年にノーベル物理学賞を受賞します

また、「ブラウン運動」も…
そもそもは、1827年に植物学者ロバート•ブラウンが、水面に浮かべた花粉が破裂して中から出てきた微粒子が不規則に動くことを発見し、それを論文『植物の花粉に含まれている微粒子について』で発表したものです
この現象は長い間原因が不明なままでありましたが、1905年にアインシュタインによって熱運動する媒質の分子の不規則な衝突によって引きおこされているという論文が発表されます
この論文によって、当時まだ不明確であった原子及び分子の存在が、実験的に証明できる可能性を示したのです

いくつもの革新的すぎる理論によって、ニュートン以来の物理学を根底から覆したアインシュタインは、この宇宙を含めた世界のあり方に関して私たちの世界観を一変させてくれたのです
まさに20世紀最大の物理学者、「現代物理学の父」と呼ばれているのにも誰も反論することはできないでしょう

※写真はイメージです

そんなアインシュタインはどのようにして物理学の世界を揺るがすような革新的•革命的な理論を発想するに至ったのでしょうか?
そこには、彼の発想の源である “思考実験(Thought Experiment)” というプロセスが存在していたからです

この“思考実験”とは、頭の中で想像するのみ
科学の基礎原理に反しない限りで、極度に単純•理想化された前提で行われるという想定上の実験になります
ある特定の前提や条件を設定したうえで、頭の中で推論を重ねながら考えを深めていき、結論を導き出すというもの
通常の実験のように実験器具で測定することもなく、「もし〜なら、何が起こるだろうか?起こっただろうか?といった仮説的に思考を重ねてゆくことです」

4歳、5歳頃のアインシュタインは父親に見せられた方位磁石を見て、磁石の針がいつも決まった方向を向いていることに非常に興味を持ったということ
16歳のときには、「もし光を光と同じ速さで追いかけたらどうみえるのだろうか?」という夢を見たそうです
そして、「光の速さで飛べることができたら、自分の目の前に置いた鏡に自分の顔が映るのだろうか?」とふと疑問に思ったことが伝えられています
おそらく、そのまま彼は“思考実験”を重ねていたのでしょう
その約10年後に、相対性理論のカタチができはじめるのですから…

「数学的道具を使わないで、できるかぎり精確な洞察を与えよう」と、自ら筆を執った唯一の一般向け解説書『Relativity:The Special and General Theory(特殊および一般相対性理論について)』が1920年に出版されますが…
それ以前、つまり執筆中であろう頃に、アインシュタインは『時間とは何か?』という時代遅れの概念を解き明かそうと思考実験を重ねていたのです
それまでの常識では、「時間とは、いかなる場合も常に不変である」と考えられていました

そこでアインシュタインは、片方が移動中で、もう一方が静止しているというように物理的な立場が異なっている場合、起きる出来事が同時でないことを示してみせたのです
つまり、時間は、実際には相対的なものということを論じました
この概念を説明するためアインシュタインは、長い列車が堤防(もしくは土手)と平行して走り去る状況下、次のようなシナリオを想定しています

主人公Mが登場します
彼は線路と平行にある程度の長さ(個人的には、列車の2倍以上は欲しいところです)で設置されている堤防、または土手の上にいます
すると、その先に見える線路上を列車が速度vの速さで左から右へと通り過ぎるのですが、その列車のちょうど中央に、友人のMが乗っているといった状況です
そして、主人公Mのちょうど真正面の位置に走り去ろうとする列車の゙中の友人M’との立ち位置が重なった瞬間、列車の先頭B地点と後尾A地点に対して同時に落雷が生じたと思ってください…


A地点とB地点から発せられたふたつの閃光はA•B地点のちょうど中間にいる堤防側のMに対しては同時に到着するはずです
その一方で、列車に乗っているM’の目にはBの閃光の方がA側の閃光よりもほんのわずかですが早く見えるはずです
実際、体感では認識できるかとは思いますが、計算上…電車の中の友人M’にとっては、たとえ列車が光の速度およそ10億7900万km/hとされる値の1000万分の1以下の速度で走っていたとしても、前方の落雷のポイントへ近づいている途中にこった出来事
列車に乗っている人の視点から見れば、2つの落雷による閃光は全く同時に認識することはできない…
と、推測できるはずです
この思考実験からアインシュタインは、「移動している人と静止している人では、時間の流れが異なることを示している」と結論づけたのです

そんな思考実験を重ね、それをまとめた相対性理論は、この世に重大な結果をもたらしました
宇宙の幾何学(中学の段階では図形と呼ばれる分野であり、人間が知覚できる空間内の物体や諸現象の観察を通して、そこから得られた図形の性質を研究する必要性から起こった学問)と、その運用に関する基本原則を一変させてしまいました


ブリタニカ百科事典には、特殊相対性理論および一般相対性理論は、「それ以前の物理理論の基礎となる前提の多くを根底から覆し、その過程において、宇宙、時間、物質、エネルギー、重力などの基本概念を再定義した」とあります





「私の人生で唯一の大きな誤り」
原子爆弾における自らの役割について後悔をしていた
アルベルト•アインシュタインとレオ•シラードは、科学の領域でリーダーシップを発揮したオッペンハイマーがマンハッタン計画を指揮するなか、アメリカ合衆国が原子爆弾の製造に踏み切るうえで決定的な役割を果たしました


原子爆弾開発におけるアインシュタイン、
自らの役目を後悔



アルベルト•アインシュタインとレオ•シラード
1939年にフランクリン・ルーズベルトに手紙を送った



アインシュタインは6歳からバイオリンを弾き始め、モーツァルト、バッハ、シューベルトなどの曲を好んだと言います

24歳で正式に結婚
26歳になった1905年バス乗車中に時計台の針が止まって見えたことをきっかけに特殊相対性理論を着想します
そして、28歳になると、あの有名な公式…質量とエネルギーの等価性や定量関係を表す
「E=mc²」を提示
その後も、「特殊相対性理論」を進化させた
「一般相対性理論」を新たに打ち出したり、重力場のない状態に限定された特殊相対性理論に加速度運動と重力を織り込むなど、さらに適用範囲を広げていくのでした

やがて、アインシュタインの母国ドイツではヒトラーが政権を奪取して排外主義的な姿勢を強めていきました
そんな折、1933年にアインシュタインは弾圧を逃れてアメリカに亡命します
そうして1930年に創設されたプリンストン高等研究所に迎えられるのでした…

1933年、アメリカに到着したアルベルト•アインシュタインとエルザ•ローエンタール夫妻


そんな中、アインシュタインは自身がベルリン大学で教えていた頃、熱心にその講義を受講していた学生であったレオ•シラードに再会します
この2人の出会いによって、「原子爆弾は具現化された」と強く言ってもいいかもしれません

ですが、そんなアインシュタインも、1949年にノーベル物理学賞を受賞したあとの湯川秀樹がプリンストン高等研究所に招かれたとき、さっそく湯川のいる研究室を訪ねます
そこで、70歳になろうかというアインシュタインは湯川の両手を握り締め、泣きながら何度もこう繰り返したということ…

「原爆で罪のない人たちを傷つけてしまった。どうか許してほしい」と

原爆はいわば、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論、そして「E=mc²」という公式を基にした兵器と言っていいでしょう
そのことは彼自身が一番知っていたはずです
1954年、死の前年には「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」とも語ったそうです(いずれもエビデンスとなるものは見つからず、伝承の可能性も十分あることをご了承ください)

アインシュタインは当時の状況を誤解していたこと、そして、その行為を後悔する態度を示していたことは明らかと言えるはずです

アインシュタインは、J•ロバート•オッペンハイマーとも面識はあったようですが、核兵器開発を導いた「マンハッタン計画」に関わったことはなく、広島と長崎への原爆投下の計画についても知りませんでした
しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領が原子爆弾というものをそもそも追い求めるようになった経緯には、アインシュタインと(子弟でもある)同僚デオ•シラードが演じた役割が決定的なものとなったのです

レオ•シラードはハンガリー系ドイツ人の物理学者で1920年代にはアインシュタインと研究をともにしています
シラードはアインシュタインとの共同研究の後、1933年にロンドンで核の「連鎖反応」というアイデアを思いつきます
翌、1934年、シラードは連鎖反応に関する自分の特許を軍事機密にするようイギリス政府を説得
ラヌエットによれば、「当時、ドイツの首相となっていたアドルフ・ヒトラーとの核による軍拡競争において、攻勢に出ることに成功した」ということです

しかし、1938年にドイツの科学者たちがウラン原子の分裂実験を成功すると、シラードはヒトラーが先に原子爆弾を手に入れることを深く憂慮するようになります
そして、自身の人脈の中で警鐘を鳴らし始めるのでした
ラヌエットの言葉を借りると、シラードは「自らが恐れていた軍拡競争を始めるために、まさに必死になって立ち働いた」のです

1939年、シラードは旧友のアインシュタインを訪ねて、核の連鎖反応の概念を説明し、かつての仕事仲間であるこの物理学者を驚かせました
ラヌエットによると、アインシュタインは「私はそんなことは全く考えたことがなかった」
と認めていたそうです
するとアインシュタインはすぐさまベルギー王室にいる友人たちに、「ナチスドイツが世界最大のウラン供給源を擁するベルギー領コンゴに目をつけているかもしれない」と警告するよう働きます

ナチスの原子爆弾開発を知らされたアインシュタインは、1939年にルーズベルト大統領に対し書簡を送り、「早急な原爆開発」を進言したのです
1941年に原爆製造を具現化するマンハッタン計画がスタートします
過去の反戦的な言動が問題視され、アインシュタイン自身はマンハッタン計画に関与しませんでした

アインシュタインの原爆への関わりは、第2次大戦時、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた原爆開発を促す手紙に署名をしたことだけでした
しかもその手紙を起草したのは、ハンガリーからのユダヤ人亡命者シラードだったのです
アインシュタインは当時最も有名な科学者であったため、この手紙に記名することでアメリカ政府の重要視するところとなり、原爆開発がスタートしたというわけです

そんな絡み方だからこそ、悔やんでも悔やみきれなかったのでしょう
よって、アインシュタインは湯川秀樹に詫びることに至ったというわけです



「合衆国が原子爆弾を開発するにあたっての重要なきっかけとなった手紙」として広く認識されていますが、
アインシュタイン自身はマンハッタン計画には携わったことはありません
また、1945年に広島と長崎に原子爆弾を投下する計画も、事前に知ってもいませんでした
ですが、戦争を嫌う平和主義者であったアインシュタイン、原爆の開発における自らの役割をやがて深く後悔するようになるのです

そして、さらにこう発言したとされています
「ドイツ軍が原爆の開発に成功しないことが分かっていたら、私は何もしなかっただろう」

アインシュタインは、この後悔を生涯ずっと抱き続けました
1954年、アインシュタインは死の一年前に友人の科学者ライナス•ポーリングへの手紙で、このことについて書いています

「ドイツが爆弾を開発する恐れがあったため、正当性がなかったわけではない。とは言え、それでもなお自分のルーズベルトへの手紙は、わが人生において唯一の大きな誤りだった」と…



アインシュタインについて調べ出すと
なかなか時間がいくらあっても
足りないくらいですね…
(⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)