一大古代勢力として君臨した出雲が、ヤマト王権にとって変わられ、それが「国譲り」の物語として今に伝わっているということは、ほぼ、間違いのないことだと思われますが、これが具体的にどのように行われたのか判然としません。


この事情についてネットやら書物(と言っても簡単なオモシロ本の類)やらを眺めても納得できる説明も見当たらず、通説もないようです。


有力な説としては、出雲国と伯耆国を勢力範囲とする古代出雲勢力が、ヤマト王権による国家建設の過程で出雲と伯耆に分断され、出雲の実質的支配者、出雲国造家の権威が大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められていったというものです。


そのほか、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によってヤマト王権に従属したとする説や、逆に、物部氏や蘇我氏はもともと出雲古代勢力の一員であり、彼らがヤマト王権樹立のため協力し大和へ一部が移住したとする説などもあるようですが、これらの説は、推理と推理の繋ぎあわせによるもので、まだまだ推測、憶測の域を出ていないようです。


結局のところ、確たることはわからないのですが、ヤマト王権が武力で一期に出雲を制圧したということではなく、逆に出雲が自主的に権利の全てをヤマト王権に譲り渡したというわけでもなく、最初は、出雲の権力の一部をヤマト王権が握り、これを糸口として徐々に掌握していったというのが事実に近いように思われます。


- 続く -