日本書紀において、皇祖神たる天照大神が笠縫邑を経て伊勢に鎮座する前に、ともに宮中に祀られていたとされているのが倭大国魂神で、相当重要視された神さまだと考えられるのですが、その割には、現代の我々には馴染みがありません。


宮殿を出た倭大国魂神を渟名城入姫命に祀らせることにしたのですが、髪が抜け落ち、体も痩せて祀ることができなかったそうです。 その後、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」とのお告げにしたがってお祀りしたという話になっています。


その結果、今では、大物主神は大神神社の祭神、倭大国魂神は大和神社の祭神として鎮座しています。


大和神社は一般にはそれほど馴染みがありませんが、かなり位の高い神社として扱われてきており、持統天皇が藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに大和神社に奉幣しているし、寛平9年(897年)には最高位である正一位の神階が授けられ、『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、明治以降の旧社格は官幣大社、現代でも神社本庁の別表神社です。


大和神社は、平安期までに、伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛しましたが、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失ってしまいました。現代では、「大和つながり」で、昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没して亡くなった戦艦大和の2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されています。


では、倭大國魂神とは、いったいどのような神さまなのでしょうか。

大国魂とか大国玉と名のつく神社は日本全国に点在しており、東京府中にも大国魂神社がありますが、何か関係があるのでしょうか。


国魂というのは、有力豪族が地域ごとに並立して治めていた国や国土そのものを神格化したもので、有力豪族の祖霊神と融合して信仰されていた神さまです。これら各地の国魂が習合したのが出雲の大国主であると考えられているようです。このため旧暦の10月(神無月)には各地の国魂である神々が出雲に集結するということらしいですね。そうすると倭大国魂神は、倭という地域の神ということになるのですが、この「倭」というのがヤマト王権が支配する範囲を指すのか、限られた狭い地域を指しているのかが判然としません。


日本の神さまというのは結構柔軟で、八幡さまでもお稲荷さんでもそうですが、ほかの神さまと習合して結局同一神として扱われるようになったりしますが、大国魂神についても、親分の大国主命や、大物主神と同一神として見られる場合もあるようです。同じ神のようであり、同じ神でないといったところでしょうか。


こう見てくると、天照大神、倭大国魂神、大物主命、大国主命の相関関係がごちゃごちゃしてわかりにくいのですが、武満誠さんらの著書を参考にすると次のように整理できます。


 ヤマト王権では、三輪山において、太陽神とへの信仰と国魂への信仰の両方が行われていた。(日本書紀において、天照大神と倭大国魂神が宮中で祀られていたと記述されている部分に当たる)


 このうち、国魂については、多様な性格を持ちすぎていたために、大神神社、大和神社などの系統に分かれることになった。(日本書記において、大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とする・・云々と記述されている部分に当たる)


 もともと太陽神と国魂との間に上下関係はなかったが、7世紀、国史を整える段階で、天神(あまつかみ)、国神(くにつかみ)の秩序ができあがり、朝廷は、もっぱら太陽神である天照大神を重んじるようになり、国魂のほうは土地の神と位置づけられ、出雲の大国主命に結び付けられるようになった。


 このように国魂は、天照大神より格下と位置づけられていくようになったため、大神神社は祖霊信仰による国魂の祭祀が廃れ、疾病よけの性格を強めるようになり、大和神社はほとんどかえりみられなくなっていた。


私は、昨年山の辺の道を歩きましたが、大和神社がこのような歴史を持っていることは全く知らず、簡単にお参りしただけで通り過ぎてしまいました。小さな神社でした。

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