六日目(2014/06/01)韮崎~蔦木


この日の行程


韮崎-17.8km→台ヶ原-5.5km(23.3km)→教来石-4.8km(28.1km)→蔦木


韮崎宿


平成26年6月1日時計06:12:09、宿泊した清水屋旅館を出発、ホテルルートインコート韮崎を過ぎた右手にある白髯神社にお参りし、水神地区に入り、青坂入口バス停の先のY字路を左に進み、右の石垣上の行人塚を確認しました。祠の周囲に馬頭観音等の石仏石塔がありました。


一ツ谷交差点の三角地帯にある水神宮を確認、国道20号線に合流し、右手道下に十六石と刻まれた標石を確認しました。信玄が天文年間に行った治水工事で、堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石だったそうです。


ラーメン店博多屋九州を過ぎ、一ツ谷区公民館敷地奥にある石仏石塔群、寛政四年の庚申塔、安永九年の馬頭観音などを確認、その先、右手の秋葉常夜燈を確認、滝田建材㈱韮崎生コン工場敷地内左の水神宮三社を確認しました。


先に進んで、国道20号線から斜め右に分岐、下祖母石旧道に入りました。分岐点に水難供養塔がありました。昭和三十四年八月十四日台風七号の豪雨による釜無川氾濫の被災者を供養したものだそうです。


旧道の右手に続く七里岩を見ながら歩き続けます。信州との國境まで七里程連なる七里岩は、太古に八ヶ岳が大噴火し、火砕流が一帯に堆積、これを釜無川が浸食してできあがったものだそうです。左には、南アルプスの鳳凰三山が見えました。


なまこ壁の旧家、長屋門の旧家、茅葺の武家門などを見ながら歩き、左手の下祖母石の神明宮を確認しました。旧祖母石村の鎮守です。


韮崎消防団第三部の火の見ヤグラの向いにある赤地蔵(地蔵さんではありません)を見て先に進み、左の石塔群(蚕神、石尊神、道祖神、九頭竜大神、和氣大神)を確認、旧道は国道20号線に突き当たり消失、上を走る国道20号線を一旦戻る形になります。この辺りに祖母石の一里塚があったそうです。日本橋から四十里目。時計07:34:33


桐沢橋東詰交差点を右折して、釜無川に架かる桐沢橋を渡り、T字路を右折、新道のガードをくぐったところに韮崎射撃場がありましたが、閉鎖されたようです。看板はしっかり残っていました。


県道12号韮崎南アルプス中央線のT字路突き当たりを右折、その先青哲町折居標識があるY字路を県道から分岐して斜め左に進み、左手の双体道祖神を確認、その先のY字路を左折、さらにその次のY字路を右に進みます。


突き当たりのT字路を右折、徳島堰に沿う旧道に入り、徳島堰に沿って歩きました。この堰は、日本三大堰(柳川堰、箱根堰)中随一で、「徳島」の名は、開発者である江戸深川の商人徳島兵左衛門に由来しています。


徳島堰に沿って進むと、左手に雨宮寺があります。文禄元年(1593年)雨宮勘兵衛の開基で、本堂の窓は武田菱です。さらに進んで左手の八幡神社の木製鳥居を確認、さらに進んだところで旧道が消滅、舗装路に従って右に下り、県道12号線のT字路突き当たりを左に進んだ先で唐沢に架かる唐沢橋で渡り、円野町入戸野に入り、先のY字路を左に入り、再び徳島堰に沿って進み、北西小スクールバス停待合所の隣にある石仏二体と石社を確認、川を渡った右手で名称松碑「當地方ノ一銘木ナリ」を確認しました。今の松は二代目だそうです。


さらに進んで、入戸野村の外れあたりで道祖神らしき祠を確認、Y字路を左に進み、やがて県道に合流、戸沢橋手前を円井逆断層案内標識に従って左折、舗装路から土道に入りました。


土道のY字路を戸沢林道の標識を目印に右に進み、戸沢川を渡り、突き当たりの舗装路を左折し、坂を上り、武者返しの石垣の旧家を確認、石垣上にある長屋門を確認、村内を進み円野分団第二部の火の見ヤグラ先の桝形を辿り、寛政九年(1797)の秋葉山常夜燈、なまこ壁の長屋門の旧家を確認しました。


この街道では秋葉山常夜燈をいくつも見ました。そして韮崎宿の手前あたりからなまこ壁の旧家を多く見かけるようになりました。どちらも火災対策ですが、火事が多かったんでしょうかね。


村内の旧道を進み、下円井沢を越え、T字路で道祖神を確認、右折して坂を下り、下円井地区多目的集会施設のを左に回り込み、左手に復活した徳島堰に沿って進み、大きく左に曲がり、徳島堰に架かる小橋から旧道が草道になりますがすぐ人家に突き当たって消滅、小橋のところに戻って徳島堰に沿って進んだところでかかしの里のモニュメントを確認しました。地域の方々が草刈りをしておられました。一言、二言、交わしました。「どこへいくの?」「甲州街道を歩いているんです」「そりゃ暑いのに大変だね、頑張ってください」


その先のつぶら野会館前に立つ徳島堰由来解説板を確認、桜並木を進み、右下の円野横断地下道で国道20号線を横断、先の上円井の変速十字路を左折、徳島堰を横断、旧圓野村を進み、大きななまこ壁の蔵から伸びる路地の右手に道標「徳島翁のおはかみち」があります。路地を入り、徳島堰を造った徳島翁と妻の墓がある妙浄寺を確認しました。


路地から旧道に戻って進み、右手の内藤家のなまこ壁の長屋門、明治天皇圓野御小休所碑を確認、上円井交差点に突当り右手の天明三年の秋葉山常夜燈を確認しました。


上円井交差点を横断、右折して国道21号線を進み、左手の旧道痕跡を辿り、児童公園奥の鹿嶋大神、石塔群。馬頭観音などを確認し、国道20号線を北に進みました。


ダンボールの内藤を過ぎ、左手奥にある稲荷神社、その向いの道路下に安政七年の名号碑を確認、小武川に架かる小武川橋を渡り、北杜市に入りました。


橋を渡って、右に入り、突き当たりを左折、黒沢川に架かる黒沢川橋を渡り、武川町宮脇から武川町牧原に入った先の左手にある四体の馬頭観音を確認、国道20号線に合流しました。合流点の手前右手に「旧甲州街道一里塚跡」と刻まれた小さな武川の一里塚跡碑を確認しました。「甲府ヨリ六里ナノデ六里塚トモ云ウ」とありました。日本橋から四十二里目です。


国道20号線を右に進んで先のY字路から右に分岐して旧道に入り、変則T字路分岐点で文政五年庚申塔を確認、左折して進み、長坂勘三郎顕彰碑を確認しました。武川小学校の初代校長で旧武川村森林組合の初代組合長を務めた地元の名士だそうです。


国道20号線武川村牧原歩道橋先のY字路を分岐して右に入り、すぐ先の十字路を直進、左手に武川警察官駐在所をみて更に直進、大武川への突当り手前を左折、国道20号線に入って右折、大武川に架かる大武川橋を渡り、武川町牧原から武川町上三吹に入り、すぐ先の下三吹バス停を左折、大きく右に曲がり、緩やかな坂を上り、旧三吹村に入って火の見櫓のところにある道祖神を確認しました。


その先の十字路を右折、次の十字路左手の万休院東口にある庚申塔などの石塔群を確認、ここを直進し、左手奥にある馬頭観音と石塔を確認しました。右手には七里岩の景観が広がっていました。その先の万休院西口にも庚申塔や石塔がありました。

右に曲がり、上三吹交差点で国道20号線を横断し、街並みを進み、国道20号線の突き当り手前右手にある旧甲州街道一里塚跡碑「甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」を確認しました。三吹の一里塚跡で、日本橋から四十三里目です。時計11:48:14


国道20号線を右折し、尾白川に架かる尾白橋を渡り白州町台ケ原に入り、尾城橋を渡った左手に甲州街道古道入口はらぢみち碑を確認、ここから草道に入り、右手にある三体の道標付き馬頭観音を確認しました。一体は「右かうふみち 左はらぢ通」、もう一体には「左はらみち」とありました。


台ヶ原宿


木立の中に入り、右手に沿って流れる小川を横断、木立の中を抜けぶどう畑の脇に出て、尾白川の土手道を進みます。尾白川に架かる曲足橋の手前から舗装路になり、緩やかな上り坂の国見坂を上り、左手にある馬頭観音や庚申塔などを見て進み、台ケ原下交差点で国道20号線を横断したところに「日本の道百選 甲州街道 台ケ原宿」標識を確認しました。台ケ原宿到着です。台ケ原宿は元和四年甲州道中の宿駅となり、高く平らで台盤のようだったので台ケ原という地名となったそうです。時計12:21:26


下宿から中宿に入り、対の山灯籠、道祖神などを確認、雲竜松の旧家、旧造酒屋などを見て進み、右手にある立場跡及び共同井戸跡解説、左手にある台ケ原宿解説、甲州台ケ原宿名水百選の里水飲み場を確認、十字路を越して上宿に入り、右手にある御本陣小松屋伝右衛門跡を確認しました。本陣の向いが脇本陣跡です。


宿並を進み、甲州街道台ケ原宿ふれあい休憩所で、高札場跡説明版、問屋場跡説明版などを、確認してさらに進み、寛延二年創業、銘酒七賢の蔵元、山梨銘醸(北原家)を確認しました。脇本陣も兼ね、幕末には高遠藩の御用商人を勤めたそうです。七賢の向で元祖信玄餅の老舗金精軒を確認しました。


先右手に元禄十三年建築の旧家を確認、続いて登記所跡の石積と石段を確認、その先右手の一段高いところにある、お茶壺道中が宿泊したという田中神社に参拝しました。ずいずいずっころばしが頭の中で鳴り響きます。


その先で旧甲州街道一里塚跡碑を確認しました。台ケ原の一里塚跡です。日本橋から四十三里十町余。時計12:59:53


先に進んで、白州町消防団の火の見ヤグラの下にある文化九年の秋葉山石塔を確認、その角を右折して進み、旧道を横断して向いの路地に入り、白州小学校に沿って進んだところにある自元寺に参拝しました。武田二十四将馬場美濃守信房の開基で、総門は信房公の屋敷から移築したものだそうです。


緩やかな坂を下り、白須下から白須上に入り、正面に七里岩の景観が拡がります。急な下り坂を進み、途中右手の題目碑、道祖神、武田神社などを見てさらに進みます。右の七里岩の上から八ヶ岳、左手には鳳凰三山、甲斐駒ケ岳が見えました。


先に進んで左手にある玉斎吾七(山田玉斎)句碑「槍もちの おくれて通る 日長かな」を確認、その先、右の木立の中にある天保十年(1839)、安政二年(1855)建立の馬頭観音などの石塔石仏群を確認、前沢上交差点手前を右折、神宮川に架かる濁川橋を渡り、右手にサントリー白州工場を見ながら進み、その先のY字路で国道20号線から分岐して右に進み、白州電気工事店の手前左に七面大明神と刻まれた題目碑を確認しました。七面大明神は法華経を守護する女神です。


松原公民館を過ぎたところで、石尊大権現常夜燈を確認しました。石尊神社の南口です。
この先辺りに鳥原の一里塚がありました。日本橋から四十四里目です。時計14:27:04

教来石宿


中央本線小淵沢駅に向かう新道を横断、流川に架かる流川橋を渡り、白州町下教来石に入り、大きく左に曲がり、緩い坂を上り、右手に旧家を見て進み、国道20号線に突き当たり、下教来石交差点を右折し、国道20号線を先に進んで、左手段上にある明治天皇小休所跡碑を確認しました。ここが教来石宿河西本陣跡です。教来石宿は下教来石が本宿で上教来石が加宿です。甲州最後の宿になります。日本武尊が酒折から信濃に向かうときに大石の上で休んだので「酒折を経て休んだ石」ということから経来石と呼ばれ、後に経の字が教と誤記されて教来石になったそうです。時計14:53:37


鳳来郵便局を右折、左に大きく曲がった先左手の段上にある諏訪神社に参拝しました。元和三年の創建で、古来より教来石村の産土神だそうです。本殿は天保十五年信州諏訪の宮大工棟梁立川和四朗富昌によるものだそうですが、覆われていて見ることはできませんでした。


右手眼下に田園風景の向こう、七里岩ごしに八ケ岳の山容を望みながら進み、先の左手段上に明治天皇御田植御通覧之址碑を確認、下教来石上バス停手前右手にある庚申塔、その先の文化元年の題目碑を確認して進み、緩やかな坂を下り、加久保沢に架かる加久保沢橋を渡り、下教来石から上教来石に入り、御膳水跡碑を確認しました。明治十三年、明治天皇ご巡幸の際に水を飲んだそうです。


上教来石バス停を過ぎ、緩やかな坂を上り、左に曲がり、国道20号線に合流、合流点で上教来石標識を確認しました。合流点の国道20号線の向いには教慶寺があります。宋から帰化した蘭渓道隆禅師の開山で、のちに臨済宗から曹洞宗に改宗したそうです。国道20号線に沿って進んだところに教慶寺の地蔵菩薩、庚申塔、甲子塔、馬頭観音が並んでいます。その向いから、斜め右の旧道に分岐します。分岐点に案内標識「歓迎 清流と緑のふるさと白州 又のお越しをお待ちしています」があります。


大目沢に架かる大目沢橋を渡り、田の中の一本道を歩き、右に北杜市白州町上教来石標識を確認、その先で山口関所跡、鳳来山口関跡碑を確認しました。甲州二十四ヶ所の口留番所の一つ。信州口を見張った国境の口留番所。天文十年武田信玄の伊那進攻の際設けられたそうです。左に西番所跡碑がありました。


山口関所の先は一本道が続きます。このあたりに山口の一里塚があったそうですが位置不明。日本橋から四十五里目です。時計15:48:10


左に曲がり、国道20号線に突き当たり、国道を横断した左手に大きな山口素道句碑「目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお」があります。山口素堂句碑の右側から伸びる未舗装路の旧道を歩き、右に曲がり富士川(釜無川)に架かる国界橋を渡って信州に入る予定でしたが渡り詰めのところに動物よけの電流ネットが張ってありました。諸先輩のブログによれば、棒を持ち上げれば通れるとのことでしたが、その棒がぐるぐる巻になっており、簡単に外せないようになっているようだったので、ここを渡ることを断念、句碑のところまで戻って新国境橋を渡って迂回しました。


下蔦木交差点で旧道と合流、国道20号線を進み、先のY字路で斜め右の堂坂に分岐、緩い坂を上り、側面に高座石と刻んだ髯文字題目碑を確認、さらに坂を上り、右手に武川筋(川路、甲州道中)と逸見筋(原路)との合流地点の道標「みぎへみぢ にらさきまで むしゅく」を確認しました。ここから韮崎までは無宿ですよ、という注意喚起ですね。


先の下蔦木集落センターに標高731m標識を確認し、さらに進んで真福寺前のY字路を左に進み、真福寺の鐘楼仁王門を確認、さらに左へ左へと真福寺を回り込み、右手に文化元年建立の甲子塔、次いで道祖神、その先右手にある「富士見町指定史跡 応安の古碑」を確認しました。宝篋印塔の基礎石と云われています。応安五年諏訪郡内の石造物では最古のものです。傍らに文化十年の馬頭観音がありました。


蔦木宿


古碑の先のT字路を右折し、緩やかな坂を下っていくと、正面に蔦木宿モニュメントがありました。信州最初の宿場、蔦木宿に到着です時計。16:54:26


小川を越し、庚申塔、甲子塔を見て進み、寛政三年の常夜燈、道祖神を確認して進み、右手に桝形道路碑を確認しました。本来は碑の所を左折したが、道路改良工事によって、約10m先に移動されたと書いてありました。


桝形道路碑の先、突き当たりの国道20号線を右折、その先にある曹洞宗鹿島山三光寺に参拝しました。本堂の屋根には武田菱があります。ここは甲斐の領地だったということですね。三光寺の隣にある十五社大明神を見てすすみ、上蔦木交差点を横断、右手にある大阪屋本陣跡を確認しました。本陣表門が残っています。この時点で時計17:09:48になっていました。本来ならもう少し先まで行きたかったところですが、この日は30度を超える暑さで体も弱ってきたので、ここから信濃境駅まで歩いて帰路につくことにしました。


ところが、これがとんだ目算ちがいでした。距離にすれば3km程度なのですが、相当な急坂で、弱ってきた体には相当こたえました。50分かかって信濃境駅(無人駅)に到着したときには汗はダラダラ、足はボロボロになっていました。これから甲州道中を歩く人は、もう少し先まで歩いて駅が近くなったところで中断したほうが効率的だと思います。


さて、うまくいけばあと一日の距離まできました。一気に踏破したいところですが、今度の土日は雨の予報ですね。梅雨入りでしょうか。なんとか梅雨入り前には踏破したかったのですが、梅雨明けしても、猛暑になるようなら命がけになってしまいます。どうなりますことやら。


本日のポイントの画像とコメントはこちらをご覧ください。

http://twilog.org/hanagamankaida/date-140601