三日目(2014/05/24)上野原~黒野田


この日の行程


上野原-2.0km→鶴川-4.3km(6.3km)→野田尻-3.5km(9.8km)→犬目-4.1km(13.9km)→下鳥沢-1.0km(14.9km)→上鳥沢-2.6km(17.5km)→猿橋-2.8km(20.3km)→駒橋-1.1km(21.4km)→大月-1.8km(23.2km)→下花咲-0.5km(23.7km)→上花咲-3.9km(27.6km)→下初狩-1.0km(28.6km)→中初狩-2.5km(31.1km)→白野-2.9km(34.0km)→阿弥陀海道-0.9km(34.9km)→黒野田


上野原宿


平成26年5月24日、この日も午前4時起きして三鷹駅を午前4時58分に出発、午前6時過ぎに上野原駅に到着、前回の終着点新町二丁目交差点に向けて歩き始めました。

途中、旧上野原村の鎮守、牛倉神社にお参りし、時計06:27:42新町二丁目交差点に到着しました。


新町二丁目交差点から蔵造りの旧家などを見て進み、脇本陣跡であるホテルルートイン上野原を通り、JAクレインの向い、スナックねむの木脇の路地を入ったところで本陣門を確認、上野原本町歩道橋の左横の道を進み上野原警察署の裏を通り、先の右細道を下り、次のY字路を右に進んで鶴川入口歩道橋を渡り、30号線野田尻方面の下り坂を進み、坂途中から斜め左の歩道に入り、バス停大向の所で30号線を横断、向いの階段道に入って進みました。


鶴川宿


鶴川に架かる鶴川橋を渡ったところに鶴川宿碑を確認しました。宿並は大正十年(1921)の大火で焼失したそうです。時計07:02:48


宿外れの志村家から回り込む砂利道を進み、Y字路の通学路標識で右に折れ、道なりに進んで逆S字道の二つ目のカーブにほんの僅か残る旧道の痕跡を確認、先に進んだ舗装路口左にある「これより甲州街道鶴川宿」標識を確認、標識の間の道を入り、中央自動車道に突き当たって側道を進み、中央自動車道に架かる蔦ケ崎架道橋を渡りました。橋の袂に大椚方面を示す道標がありました。


橋を渡り旧道を進み、右に曲がる辺りに大椚の一里塚跡碑を確認しました。日本橋から十八里目です。

大椚の集落に入り、石塔前の「大椚宿発祥の地」と記された道標を確認、集落の外れの吾妻神社を参拝、さらに進んで中央自動車道に近づいた付近で武田信玄が北条方の侵略に対抗して築いたという長峰砦の跡碑を確認しました。時計07:53:41


野田尻宿


先に進んで、野田尻宿方面を示す道標を確認、中央自動車道に架かる新栗原架道橋を渡り、突き当りを左折、向いのT字路を右折、車道を下って野田尻宿に到着しました。明治十九年の大火で宿並は焼失したそうです。時計08:20:27


宿に入って、本陣跡にある明治天皇御小休所址碑、その向かいにある野田尻宿碑を確認、赤鳥居の犬嶋神社を見て進み、左に曲がった先でお玉ケ井碑を確認しました。旅籠の女中お玉が、恋が実ったお礼に水不足に悩む野田尻に澄んだ水を湧きださせたという伝説があります。実はお玉の正体は竜で、長峰の池の主竜神と結ばれたのだそうです。


すぐ先の突き当りにある西光寺のY字路の右の坂を上り、中央自動車道に架かる北久保架道橋を渡り、県道30号大月上野原線に合流、合流点の先で富士講の嶽大先達白倉宝行碑を確認、その先右側擁壁上に荻野一里塚跡碑を確認しました。日本橋から十九里目です。時計08:49:35


荻原バス停を過ぎ、矢坪架道橋を渡り、大乗妙典日本廻国供養塔を確認、 街道の右側の細いスロープを登って矢坪坂に入り、矢坪坂の古戦場跡解説板を確認しました。享禄三年四月二十三日相模の北条方が甲斐攻めの為、矢坪坂に進出した…云々とありました。先に進むと「熊出没!注意必要」の看板があって少しビビリました。


武甕槌神社鳥居を過ぎ、宝篋印塔、矢坪金毘羅神社参道道標を確認、土の山道を中央自動車道の談合坂SAを眼下に見て進み、暗い高巻道に入りました。ここが有名な座頭転がしで、先導者が高巻の頂点を回り込んだのに気が付かず、数珠つなぎの座頭さん達が、先導者の鈴の音の方に進んで谷底に転がる様に落ちたという伝説のあるところです。


犬目宿


土道から舗装路に変わって新田の集落に入り、先に進んで県道30号大月上野原線と合流、犬目兵助の生家跡などを確認しました。兵助は、米穀商を襲い、甲州一揆を首謀した義民です。時計09:49:13

その先で、犬目宿本陣跡にある明治天皇御小休所址碑を確認しました。犬目宿は昭和四十五年の大火で、宿並の6割を焼失したそうです。時計09:53:44

宿の外れの大ケヤキを右に曲がったところにある宝勝寺に参拝しました。甲斐八十八ケ所第六番札所だそうです。宝勝寺境内に立つ白い観音さまの横から富士山がきれいに見えました。


扇山登山道口を過ぎ、白馬不動尊の赤鳥居の先を大きく左に曲がり、擁壁のスロープから君恋坂に入り、土道を進んだ県道30号線の擁壁上辺りが街道の最高点のようです。土道から舗装路になり、君恋温泉の前を通り、先の突当たりを右折しまた土道を下り、県道30号線に合流しました。


不動明王の石塔先のカーブを回りこんだところで恋塚の一里塚を確認しました。日本橋から二十里目です。時計10:25:12


集落入口の中腹の山住社の赤鳥居の道を入り、集落の外れで元馬宿である大庭家を確認、ここから土道に入り、石畳に変わってすぐに県道に合流、上野原市から大月市に入りました。ここでも富士山がきれいに見えました。


擁壁にある新しい馬頭観世音、段上には小さなお社や石仏石塔群を確認、山谷バス停から鳥沢宿に向けて下り、県道30号大月上野原線標識の先で旧道の細道に入り、すぐ県道30号と合流、もくもくと下り、また左下の細道を下り、正面に中央道の高架が現れたところで旧道は横道に突き当たり、ここを右折して県道30号線に合流しました。


鳥沢宿


県道30号線を下り、国道20号線のT字路の突き当たりを右折して下鳥沢宿に入りました。下鳥沢宿と上鳥沢宿は二宿で一宿、毎月上十五日は上鳥沢宿、下十五日は下鳥沢宿が交互に業務を勤めたそうです。時計11:23:28


福地八幡神社を過ぎ、市立鳥沢小学校で大月市指定天然記念物のコノテガシワを確認しました。この辺りが上鳥沢の一里塚があったところです。日本橋から二十一里目です。時計11:35:01

上鳥沢宿井上本陣跡にある明治天皇駐蹕地碑を確認、三栄工業株式会社の看板から右の旧道に入り、大月サッシ建材看板のところで国道20号線に合流、600mほど進み右の袴着旧道に入り、Y字路を左折、L字路から左に土道を下って宮谷橋の東詰に出て、東町自治会前にある七面大権現、常夜燈などを確認、小菅方面を示す標識に沿って国道20号線から斜め右の道に入りました。


猿橋宿


先に進むと猿橋が見えてきました。猿橋は文明十九年(1487)以降30年毎に架け替えられ、現在の橋は嘉永四年(1851)の図面を元に昭和59年に復元されたものだそうです。時計12:32:36


猿橋を渡ると正面に忠次蕎麦の大黒屋があります。国定忠次が逗留したそうです。そのまま直進して新猿橋西交差点で国道20号線に合流、猿橋駅前にある三嶋神社を参拝、左に曲がったところで猿橋一里塚跡の標識を確認しました。日本橋から二十二里目です時計。13:01:11


先に進み、山梨中央自動車販売センターから斜め右の坂を下り、大月駒橋郵便局を過ぎ、斜め左の細道を上り、中央本線第五甲州街道踏切を渡り、国道20号線にぶつかった後、横尾橋バス停からまたすぐ斜め右の旧道に入りました。


駒橋宿


厄王大権現を確認した後、国道20号線に合流しました。この辺りが駒橋宿です。時計13:36:49
先に進んで、札幌ラーメン満北亭の手前を右折しました。時計13:45:19


大月宿


正面に岩殿山が見えてきました。岩殿山城は武田二十四将の一人小山田氏の居城跡です。駒橋跨線橋をくぐり、さつき商店街通りを通り、大月宿に入りました。時計13:55:35


大月駅の前を道なりに進み大月二丁目交差点で国道20号線に合流し、大月橋東詰交差点正面左に数基の追分道標を確認しました。左富士街道・右甲州街道と刻んでいますが、当時のT字路右の甲州街道は消滅しているので迂回しました。橋を渡って直進すべきところ左折してしまい、10分ほど進んだところで間違いに気がつき引き返して正規ルートに復帰、南無阿弥陀仏の題目碑や庚申塔を確認しました。ここが下花咲の一里塚跡で日本橋から二十三里目です。ここから下花咲宿に入りました。時計14:40:34


下花咲宿


先に進んで再建された本陣を確認しました。天保六年(1835)の火災で焼失、その後に再建された建物です。星野家は本陣、庄屋、問屋、名主を勤めた名家です。建物前に立つ明治天皇花咲御小休所碑を確認しました。下花咲宿は次の上花咲宿と合宿です。


上花咲宿


上花咲宿があった西方寺橋辺りを過ぎ、当分国道20号線を歩き続けました。時計15:09:10


中央自動車道の高架を2回くぐり、大月警察署を越し、笹子川に架かる真木橋を渡り、真木川に架かる初月橋を渡り、JAクレイン笹子川支店の先で、笹子川と中央本線に架かる源氏橋を渡り右折、中央本線に沿って砂利道の旧道を進み、甲府砕石初狩鉱業所の敷地を抜けて旧道に復帰、旧道沿いに石仏石塔群を確認、JR中央本線第七甲州街道踏切を渡りました。 時計15:56:46


下初狩宿 


踏切を越えた先の右にある聖護院道興歌碑「今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里」を確認しました。道興は関白近衛房嗣子。大僧正。修験宗総本山聖護院の座主を努めました。


碑の先で、相模川水系寒場沢を跨ぎ、国道20号線に合流した先の左の道下にある脇本陣跡、脇本陣の向いにある山本周五郎生誕之地碑を確認しました。碑の下に堂々とした本陣門があり、母屋の入口にはみどうの文字がありました。時計16:14:01


本陣先の右手にある廿三夜塔、常夜燈を確認、初狩駅前交差点を過ぎ、宮川に架かる宮川橋を渡り、初狩小学校東交差点を越えた右手に芭蕉句碑「山賊の おとがいとずる 葎かな」を確認しました。芭蕉は天和二年(1682)江戸の大火で焼け出され、初狩に住む実姉のところで半年間過ごしたそうです。


中初狩宿


先に進んで中初狩宿小林本陣跡にある明治天皇御小休遺跡碑を確認しました。中初狩宿は先の下初狩宿と合宿で、毎月十五日までは中初狩宿、十六日からは下初狩宿が業務を行ったそうです。時計16:34:12


唐沢橋の袂の脇道に入ったところにある正徳元年の唐沢橋地蔵、橋を渡った左手段上にある石仏石塔や常夜燈を確認、笹子川に架かる船石橋を渡り、橋詰左手にある船石碑を確認しました。親鸞上人が船石の上で説法を行ったそうです。碑の傍らには「御舟石所在地ハ従是東三拾間余」道標がありました。


正面にJR中央本線のトンネルが見えたところが天神峠ですが、ここからの旧道は中央自動車道の敷設で消滅しているので国道20号線で迂回しました。歩道スペースが全くなく車が通る度にヒヤヒヤでした。


白野宿


滝子川の先を斜め右に進んで白野宿に入りました。白野宿はこの先の阿弥陀海道宿、黒野田宿の三宿

による合宿で、十五日迄は黒野田宿、十六日から二十二日までは阿弥陀海道宿、二十三日からは白野宿が業務を行ったそうです。時計17:20:31


上宿に入って宝林寺に行ってみましたが門は閉ざされていました。永正六年(1509)清心浮公の開基で、本尊は地蔵菩薩です。宝林寺参道手前が天野脇本陣跡、脇本陣先の二軒目が今泉本陣跡です。


国道20号線に合流、右手にある子(ね)神社に参拝、子神社の先で大鹿川に架かる大鹿川橋を渡り、橋の先で国道20号線から分岐して斜め右に入り、中央本線乙大鹿沢ガードをくぐり、Y字路を左に進み、中央本線の向こう側に立石らしきものを確認しました。大月の桃太郎伝説の中で桃太郎に攻め込まれた鬼が投げた杖が立石です。


JR中央本線に沿って進み、右手の石垣上にある萬霊塔を確認、先に進んだ右手にある稲村神社に参拝、本殿の見事な彫刻、稲村神社境内の男根女陰両体道祖神、境内中央の見事な大杉などを確認、神社の向いにある親鸞上人念佛供養塚を確認し、火の見櫓の先で左折、JR中央本線ガード手前の左段上にある葦ケ池跡碑を確認しました。


JR中央本線吉久保ガード先を直進、突当りの国道20号線を進みました。


阿弥陀海道宿


左に大きく曲がる国道20号線から分岐した旧道を直進、笹子小学校の手前を左折して旧笹子川橋を渡ると、かの笹一酒造がありましたが、すでに門は閉ざされていました。笹一酒造ははとバスのツアーでよく寄ったきたところです。大正八年(1919)創業の蔵元で、敷地内にギネスに登録されている世界一の平和大太鼓があります。


笹一酒造を過ぎた阿弥陀橋の向こうが本来の旧道で阿弥陀堂跡がありますが、今日はここを過ぎます。橋を過ぎたあたりから阿弥陀海道宿です。前宿の白野、次宿の黒野田との合宿で、月の十六日から二十二日を担当したそうです。時計18:31:03


名物笹子餅を商うみどりやがありました。創業明治三十八年(1905)。笹子峠の茶屋の力餅が元だそうです。


その先、笹子駅まできたところで、本日の終了としました。時計18:40:24
ここから黒野田宿に入っていきます。


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http://twilog.org/hanagamankaida/date-140524