一日目(2014/05/17)日本橋~日野


行程


日本橋-7.1km→内藤新宿-7.6km→下高井戸-2.8km→上高井戸-5.6km→国領・下布田・上布田・下石原・上石原-7.5km→府中-9.5km→日野


日本橋からの出発


日光道中、奥州道中に続いて、江戸五街道の三番目は甲州道中です。

平成26年5月17日時計5:52:04日本橋の日本国道路元標から出発、日本橋交差点を右折し永代通りに入り、日本橋口から東京駅構内に入り、かつての松平丹波守、水野肥前守の大名屋敷跡である東京一番街を抜け、丸の内北口を出て直進、和田倉橋前を左折して日比谷通りのお濠端歩道を進み、馬場先門先の日比谷交差点をお日比谷濠に沿って右折、祝田橋を越し、桜田門とその向の警視庁を見て進み、三宅坂を上り半蔵門交差点を左折し麹町通りを歩きました。
 
麹町一丁目から六丁目まで進み、上智大学の向かいの心法寺で、お地蔵さんの体に塩を塗ると病が治ると言われている塩地蔵さんにお参りしました。


聖イグナチオ教会の向い、スクワールの前を斜め右に進み、四谷見附跡の桝形を辿り、寛永十六年(1639)築造の見附石垣を見て四谷見附橋を渡り、正面の綿半野原ビルを左折し元の道筋に合流しました。


内藤新宿


四谷一丁目から四丁目と進んで四谷四丁目交差点を渡ったところで内藤新宿(東口)の大木戸跡を確認、内藤新宿に入りました。時計07:54:37


当初、江戸日本橋からの次宿は高井戸だったのですが、距離が四里もあったため、浅草阿部川町の名主喜兵衛等の請願により元禄十二年(1799)宿が新設されました。新設された宿なので新宿といい、内藤氏の屋敷があったので内藤新宿といいます。


街道の左は新宿御苑です。譜代の内藤清成の江戸屋敷跡です。内藤氏は、後に信州高遠藩主です。

次に、内藤家の菩提寺である太宗寺の銅像地蔵菩薩坐像を拝観。江戸六口に造立された江戸六地蔵のひとつです。


新宿二丁目交差点を越え、伊勢丹本店前の新宿三丁目交差点の追分へ。前はここを直進して青梅街道を青梅まで歩きましたが今日は左に折れます。次の新宿四丁目交差点を右折、跨線橋を上って南口前を過ぎ、西新宿1丁目交差点を右折、みずほ銀行手前を左折して国際通りに入りました。ここが旧道です。


突当りで旧道は消失、左折し、西新宿2丁目交差点を右折して、元の道に復帰しました。

西新宿三丁目交差点からは、首都高速の高架下を歩きます。


高架下に入り、向かい側に二代将軍秀忠に仕えた初台局(秀忠の乳人)一族の墓があるという正春寺を過ぎ、初台、幡ヶ谷と過ぎ、笹塚で「笹塚碑」の説明を確認しました。日本橋から三里目です。時計09:24:55


代田橋を過ぎ、明治大学和泉校舎、築地本願寺和田堀廟所を見て真教寺へ。本堂は関東大震災そして昭和二十年五月二十五日の空襲により焼失したそうです。親鸞上人が八十歳の時の自作と伝わる親鸞坐像が安置されているそうです。


下高井戸宿


下高井戸駅入口交差点に到着。下高井戸宿です。時計10:04:10


高井戸宿は、慶長七年(1602)に設置。慶長九年(1604)上下高井戸宿に分けられ、両宿は合宿となり、月の十五日までは下高井戸宿、十五日以降は上高井戸宿がそれぞれつといめたそうです。


先に進んで宗源寺へ。境内にある不動堂がかつては高台にあったところから高井堂と云われ、転じて「高井戸」という説があるそうです。


その隣に下高井戸宿本陣冨吉屋源蔵跡があるはずなのですが、隣はマンションの建築工事中で本陣跡は確認できませんでした。


その先、鎌倉街道入口交差点を越した街道左側に日本橋から四里目の甲州道中一里塚跡(上北沢一里塚)解説板があるはずでしたが、これも見逃してしまいました。


やがて首都高速の高架が右に反れますが、街道(国道20号線)は直進します。やっと頭上が青空になりました

上高井戸宿


上北沢五丁目交差点、続いて上北沢四丁目交差点を越えたところの高井戸陸橋辺りが上高井戸宿です。時計10:56:42


陸橋をくぐり、Y字路を国道20号線から分岐して斜め左烏山市街方面に入る道筋が旧道です。この旧道を歩きます。


京王線芦花公園駅駅手前の長泉寺。上高井戸宿の武蔵屋本陣をつとめた並木家のお墓があるそうですが、ちょうど葬儀の最中でしたので入り口で失礼しました。


烏山バス停を越すと南烏山りんれい公園があり、入口に「南烏山から給田へとつづくこの道は甲州街道です」「昔の街道筋を偲(しの)ばせる風景はほとんど残っていませんが、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」という小さな石標がありました。


南烏山四丁目から六丁目に入ると、街道脇に石仏石塔群がありました。お地蔵さんの首がありませんでした。


南烏山から給田三丁目に入ると、民家の門内に里程標がありました。内藤新宿より三里とありました。明治三年(1870)に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を起点として建立された新一里塚です。時計11:45:54


仙川に架かる大川橋を渡り焼肉レストランを過ぎると、旧道は仙川三差路交差点で国道20号甲州街道線に合流します。交差点先で仙川領主飯高主水貞正の菩提寺である昌翁寺を確認しました。

仙川駅入口交差点のセブンイレブン前で仙川一里塚跡の碑を確認しました。日本橋から五里目です。時計12:01:15


キューピーマヨネーズ工場を過ぎ、仙川二丁目交差点を越え、斜め右に入る旧道に入ります。旧道口に瀧坂旧道・馬宿川口屋と刻まれた道標を確認、薬師如来像を見て動物病院を越えた先で再び国道20号線に合流しました。


合流した先の竹林の奥にある金子のイチョウ(調布市天然記念物)を確認、つつじケ丘交番前交差点を越え、朱色の山門の金龍寺にお参りし、菊野台交番前交差点を越えたところで庚申塔を確認、その先で妙円地蔵さんを拝観しました。両目を失明し尼となった妙円が村人のために念仏を唱え続け、地蔵菩薩立像(妙円地蔵)を建立したそうです。

その先の路地で金剛夜叉明王を確認しました。


国領宿(布田五宿)


調布警察を過ぎ、旧甲州街道入口交差点を調布市街方面に直進、西友を越えて、京王線の国領駅入口交差点に稲荷神社がありました。この辺りが国領宿です。時計13:01:50


布田五ケ宿は江戸日本橋から五里三十二町余り(約23.5km)と近いので本陣、脇本陣は無く、旅籠九軒の小宿です。月の内、一日から六日まで上石原宿、七日より十二日まで下石原宿、十三日から十八日までは上布田宿、十九日から二十四日まで下布田宿、二十五日から晦日まで国領宿がそれぞれ宿業務を務めたそうです。


大きく右に曲がり、常性寺の調布不動尊を確認、下布田宿に入りました。時計13:22:33


御朱印寺として赤門の設置が許されたという日蓮宗の蓮慶寺に参拝、24Hパーキングの手前で「近藤勇とゆかりの人々」の解説板を確認、調布駅北口交差点の手前右が布多天神社参道入口で「近藤勇と新選組ゆかりの道解説板」を確認しました。

平安初期、布多天神のお告げにより木綿織りを始め、朝廷に貢物(調)として献上、調布(てづくり)と命名して以降調布の里と呼ばれるようになったそうです。

上布田宿に入り、東京三協信金の向いの駐車場で小島一里塚跡碑を確認しました。日本橋から六里目です。時計13:43:24


下石原宿に入り、天台宗常演寺、右にやや曲がって源正寺にお参りしました。源正寺の先で都道119号旧甲州街道(北浦上石原)線は右からの都道229号線に合流し、旧甲州街道(府中調布)線になりました。


上石原宿に入り、中央自動車道手前の右側駐車場のフェンスにある「近藤勇と甲陽鎮撫隊」、「近藤勇と新選組ゆかりの地(上石原宿名主中村家)」解説板を確認しました。


西光寺にも参拝。鐘楼門の仁王門は立派でした。


中央自動車道の高架をくぐり、上石原交差点を横断、飛田給に入りました。武蔵野の荒野を往来する旅人の飢えや病を救う施設非田給があったことに由来するそうです。


飛田給駅入口交差点を過ぎ、飛田給薬師堂と行人塚に。伊達藩士の医師、意仙が自ら掘った墓穴に入り入定した跡。薬師堂には意仙が造った石造瑠璃光薬師如来立像が安置されているそうです。


白糸台六丁目に入って、本尊十一面観世音菩薩を安置する天台宗観音院の山門脇の馬頭観音を確認、その隣の神明神社で嘉永六年(1853)の秋葉山常夜燈、傍らにある下染屋解説碑を確認しました。調布(てづくりぬの)を染めた所であったことに由来する、と書いてありました。


西武多摩川線踏切を越え、旧上染屋村に入り染屋不動尊に。本尊の銅製阿弥陀如来像は国重文、新田義貞が鎌倉攻めのときの守仏だそうですが、厳重に鍵がかかっており、隙間からのぞいてみましたが、何も見えませんでした。


旧常久村に入り、常久八幡神社を確認、若松町を過ぎたY字路を直進し、マロウドイン東京先のY字路を左に進み、京王線の踏切を越え、旧八幡宿村に入り、武蔵國府八幡宮へ。桓武天皇(724-749)の頃、一国一社の八幡宮として創建された古刹。後に六所宮(大國魂神社)の社領となったそうです。


府中宿


大国魂神社に到着。このあたりから府中宿になります。時計15:47:34


少し進んで府中市役所前交差点角には高札場があります。このあたりは府中わくわくウォークで歩いたところです(http://twilog.org/hanagamankaida/date-130512 )。


番場宿に入り、時宗長福寺、鹿島坂を越えたところで曹洞宗高安寺にお参り。平将門を討ち取った藤原秀郷の館跡で室町幕府の将軍足利尊氏が再興したそうです。本堂は享和三年(1803)、山門は安政元年(1854)。


弁慶坂を下り、京王線踏切を越え、片町から美好町に入り、美好町三丁目西交差点を越えたところにある冠木門は府中宿の本陣門を移築したものだそうです。


都道229号府中調布線は本宿町交差点で右から来た国道20号線と合流します。合流地点で本宿碑を確認、本宿交番前交差点を渡ったところで秋葉山常夜燈を確認しました。


すぐ先には熊野神社が。本殿裏にある上円下方墳は国内最大最古の古墳で国史跡です。ここも府中わくわくウォークで歩いたところです(http://twilog.org/hanagamankaida/date-130512 )。


JR南武線に係る西府橋を渡り、国立インター入口交差点で道筋は都道256号甲州街道線になり、国立インター入口バス停に史蹟獅子宿碑を確認しました。天暦元年(947)村上天皇より賜った天満宮宝物獅子三基の稽古が行われたところだそうです。


オートバックスの向かいの文久三年(1863)建立の秋葉山常夜燈を確認しました。この付近は秋葉山常夜燈が目立ちます。秋葉山。秋葉信仰は江戸時代に大流行したとか。


さらに進んで国立市消防団第四分団の向いにある関家かなどこ跡解説板を確認しました。関家は鋳物三家(矢澤、森窪)のひとつで梵鐘や仏像を鋳造したそうです。


続いて、おなじみ谷保天満宮へ。菅原道真が大宰府に流され、死後、三男の道武が父の姿を彫りこれを祀ったのが谷保天満宮の始まりで、この像が垢抜けないので野暮天(谷保天)の語源になったというお話です。ほんとうでしょうか。


都道256号甲州街道線をひたすら歩き、永福寺、続いて南養寺へ。ここの参道口にも秋葉山常夜燈が。寛政六年(1794)。南養寺の本堂は文化元年(1804)の再建です。


矢川三丁目交差点を過ぎし、青柳交差点を過ぎたところで青柳稲荷神社を確認。このあたりは立川・国立・国分寺ウォークで歩いたところです(http://twilog.org/hanagamankaida/date-140301


青柳稲荷参道脇福祉センターの植栽の中にある旧青柳村の常夜燈(寛政十一年(1799))、その傍らにある嘉永二年(1849)の馬頭観音を確認しました。


青柳から錦町に入り、Y字路右の都道29号奥多摩街道線に入り、信号錦町下水処理場前で新奥多摩街道を横断して進みY字路に突き当ったところで日野の渡し場標石、日野の渡し碑、歌碑、大正十三年(1924)の馬頭観音を確認しました。ここのY字路を右に、次のY字路を左に進み、階段で土手上に出て、立川と日野を結ぶ立日橋を渡りました。


橋を渡って土手道を進んだところにある日野渡船場跡の解説板を確認しました。大正十五年(1926)日野橋の開通によって渡船は廃止になった…云々とかかれていました。


日野宿


解説板の先をヘアピン状に回り、立日橋のトンネルをくぐり、側道に入り、立日橋南交差点の立日橋南交差点はY字路を右に進み、新奥多摩街道入口交差点を右折、川崎街道入口交差点を過ぎたところで日野宿本陣を確認。嘉永二年(1849)の大火で焼失、文久三年(1863)の再建だそうです。門脇には天然理心流佐藤道場跡碑。主の佐藤彦五郎は天然理心流の近藤周助に師事し、道場を設け近藤勇が出稽古に来ていたとか。時計18:47:10


本陣の向にある問屋場と高札場跡を確認、八坂神社の向いの麒麟坊(中華料理店)先の細道に入り、すぐ先の十字路を左折して日野駅前東交差点を横断して、そのまま直進して日野駅東交差点へ。この日はここで終了とし、そこから日野駅まで歩きました。時計19:06:59


本日のポイントの画像とコメントはこちらをご覧ください。

http://twilog.org/hanagamankaida/date-140517