【12月20日放送分】
今回のブラタモリは先週に引き続き川崎大師です。
前回川崎大師の始まりを探ったタモリさん、平安時代に弘法大師像が発見されたことにより川崎大師誕生のきっかけになったんでしたよね。
さらに江戸時代にたくさんの人が訪れるようになった人気の秘密を探りましたね。
今回も川崎大師のさらなる人気の秘密に迫ります。
再び川崎大師前の参道にやってきました。
久寿餅のお店が参道沿いに沢山並んでいます。現在、川崎大師を代表する名物です。
久寿餅の始まりは江戸時代の末の天保ころ、ある雨風の強い夜、久兵衛の納屋にあった小麦粉が濡れてしまったのですがそれを捨てずにとっておきました。その翌年飢饉(天保の大飢饉)が起こり、食べ物を探した久兵衛は去年とっておいた小麦粉を思い出しました。するとデンプンができていました。これを蒸したところお餅のようなものができました。これが久寿餅が生まれたお話です。ということで縁起のよい食べ物なんです。このような名物があるのも人気の秘密です。
でも川崎大師の人気の秘密はこれ以外にもまだまだあります。ということで先に進みます。久寿餅のお店に行くとばかり思っていたタモリさんと佐藤アナ、ガックシ。(最後の方で食べられますよ〜♪)
一行が向かったのは川崎大師から西におよそ3キロ、多摩川に架かる六郷橋の近くです。
川崎大師は明治時代になるとあるものが誕生したことによってさらに人気が高まっていきました。それがこれなんです、と案内人が指さした先には線路が走っています。そうです、鉄道です。目の前を走っている鉄道は京浜急行大師線。
明治32年大師線開業時の路線図を見ると、六郷橋のあたりから川崎大師までを結ぶ路線でした。大師線(旧大師電気鉄道)は川崎大師への参詣路線です。
実は、大師線が誕生する前にもうひとつ川崎大師の人気を高めた鉄道がありました。
明治五年に開業した新橋〜横浜を結ぶ日本初の鉄道。開業してすぐできたのが川崎駅でした。そして意外にも川崎駅で乗降する人が多かったのです。その理由が川崎大師で毎月21日に行われている縁日にありました。ですが、その人気は縁日だけに留まりませんでした。
明治18年の新聞記事を見ると1月三が日は川崎大師への初詣客が多いだろう、急行を川崎駅に臨時停車させると書いています。実は新聞記事で初詣という言葉が使われたのがこの記事あたりが最初。鉄道ができたことで初詣という習慣と名前がこの頃川崎大師を中心にできてきました。
初詣は、古くからの信仰行為を、明治以降に鉄道会社が大衆文化として再設計・拡張したものということはよく知られています。
このほか、古くからの慣習と信じていたものが実は明治時代からのものだったという慣習は結構ありますね。
タモリさんは初詣反対派だそうで、全くやらないそうです。平生からちゃんと信仰しろよ、正月だけいくなよということだそうです。おっしゃるとおり!
鉄道によりアクセスがよくなったことで川崎大師は初詣で賑わうようになり、その人気を受けて作られたのが大師線だったのです。
でも大師線が始まる六郷橋駅は川崎駅からちょっと離れています。いったいなぜなんでしょう。
開業当初は川崎駅から人力車に乗って川崎大師まで行っていました。そこに一度で多くの人を運ぶ乗り物ができると人力車屋さんは商売が成り立たなくなります。そういう反対運動があったので六郷橋から始まるというのは妥協点でした。
大師線は、最初は路面電車でした。実は京都、名古屋に次ぐ東日本初の電車だったのです。
この先に路面電車時代の雰囲気を感じられる場所があるということでその痕跡を探しに行ってみます。
しばらく歩いてちょっと高いところに着きました。多摩川の氾濫から守るために盛り土をしたところです。この高くなったところを大師線の路面電車が通っていました。
当時、路線の両側には桜の木が植えられていました。電車に乗ると両側に桜が見える、想像するといかがでしょう。みんな乗りたがるでしょうね。電車の開業日は川崎大師の縁日で、電車を一目見ようとたくさんの人が集まりました。
少し歩くと突然石が置かれています。何となく鉄道に関わるものだと思いたいところですが、実は何なのかよくわかっていないそうです。なんじゃそりゃ。
意外と初期の停留所はそのぐらいのものだったのかもしれません。
ではここで今回のお題を振り返ってみましょう。
初詣スポット川崎大師 人気の秘密とは?
ここまでは川崎大師の人気の秘密を探ってきましたが、ここからは川崎大師の人気がもたらしていったものをみていきます。
明治39年の地図を見てみます。タモリさんたちがいる場所の近くあたりに煙突マークが描かれています。今マンションがあるあたりです。さてこの煙突マークは何でしょう。
電車が通るということは電気が必要になります。電気を作る場所、発電所が必要です。そうです、煙突マークは発電所です。大師電気鉄道が電気の動力を確保するために作った火力発電所なんです。
発電所の電気は当然電車にも使われるが余った電気は売ることができました。大師線はこの電気を利用して川崎の町と協力しながら沿線にあるものを誘致していきました。
大正11年の地図を見ると沿線に工場が沢山できています。例えば紡績工場、旨味調味料で有名な企業の工場、日本蓄音機商会の工場などすごいところが建っています。
この火力発電所をきっかけに大正から昭和の初めにかけて大師線の沿線にたくさんの工場が作られていきました。
工場が増えていったことで大師線も大きく変化していきます。
開業当時川崎大師の駅が終点でしたが、このあとさらに延びていきます。それをみていくと川崎大師の人気がもたらしていったものがわかります。それを電車に乗って見にいきましょう。
電車に乗って出発です。まもなく鈴木町につきます。ちょっと不思議な名前です。これは先ほど地図で見たうま味調味料で有名な企業の創業者の名前です。
次は川崎大師駅。かつての終点です。今はこの先続いています。それを電車に乗って見ていきましょう。
ちなみにタモリさんは撮り鉄ではなく、乗り鉄で呑み鉄だそうです。車両とかにはあまり詳しくなくて電車に乗って呑んでりゃいいそうです。
そうこうしているうちに小島新田駅につきました。終点なのでここで降ります。
駅を降りたところに線路の柵が残っていました。私の地元を走っていた旧片上鉄道の廃線跡にも何年か前まで残っていたのですが撤去されてしまったようです。
柵が残されているということは、そこまで線路があったということです。高い場所から確かめてみましょう。
陸橋を上がって眺めてみます。
小島新田駅から線路が続いていたようです。さらに続いていくと思われる方向には横切って線路がたくさんあります。貨物線の線路です。現在は貨物線によって線路が途切れているようにみえますが昔はここから線路がさらに続いていました。
線路が延伸されたのは昭和19年以降のことでした。当時の地図を見ると線路が京浜工業地帯の中に続いています。
戦時中、京浜工業地帯は軍事上の物資などを作る場所になっていました。そういう状況の中で大師線も延長されて働く人々の足となっていったのです。
始まりは川崎大師までだったのが、そこから始まってここまでいくんてすね。川崎大師駅からさらに伸びた大師線が日本の産業の発展を支えていたんですね。
タモリさん一行は陸橋を降りて向こう側の廃線跡を確かめに行きます。
降りた先、アパートがたっている横を線路がかつて通っていました。いかにも線路が通っていたというカーブです。さらに先に進んでいくと道は建物でふさがれています。右に折れて進んで行きます。旧街道歩きでもよくこういうことをやったなあ。
線路跡と思われる道に戻って進むと、また工場に道を塞がれています。その工場の人にお話を聞いてみます。
話を伺った人によると、ここに線路が35年前に入社した当時、会社の先輩から線路の廃線の跡があったと聞いているそうです。
ちょうど工場の中を複線の線路がひかれていて、道路の向こう側にホームがありました。小島新田という駅です。もともとはここにあったのです。ホームがあったのでホームの分だけ道がズレています。
ちなみにこの工場は鉄道車両の保守整備をするところで、足回り、駆動関係、分解整備が必要な部品を持ち込んで整備する会社だそうです。タモリさん、興味津々です。
さて、こうした工場と鉄道の発展が、また川崎大師に人気をもたらすことにつながっていきました。それは何だったのでしょう。
川崎大師駅前にやってきました。線路の向こうに白い柱が二つ見えています。門は線路を向いていて工場の奥に続いているように見えます。この先にあるのは大正三年にできた旨味調味料で知られる会社(NHKだから苦しいね)の大きな工場です。ということは、この白い柱のあいだには引込線があったのです。ここにはうま味調味料の原料を運ぶ専用の引込線が通っていました。
かつてのうま味調味料は小麦粉に水を加えて原材料となるグルテンを作っていました。その際に大量のデンプンができるので使いみちに困っていました。デンプン、川崎大師のある名物に関わっていましたよね?
久寿餅です。その原材料がここから調達されていたのです。ここで久寿餅の試食です。おいしいですね。
川崎大師の工場から久寿餅の材料が大量に手に入る、となるとお店の数は増えてきます。工場で出た大量のデンプンのおかげで川崎大師にたくさんの久寿餅のお店ができました。こうして久寿餅は川崎大師の名物となっていきました。
お大師さんの力、すごいもんですね。もともとはそこから始まったわけですからね。
川崎の町全体に関わっていますよね。
今回もおもしろかったですね。今年のブラタモリはこれでおしまい。次は来年1月17日、琵琶湖クルーズです。
それではみなさん、さようなら。
