生花と介護の奮闘記 -3ページ目

ジューサーとミキサー

バナナがあったので、ふと、バナナジュースを作って飲んでみたくなった。

この前から、にんじんと豆乳と酢少々,蜂蜜入りのジュースを主人が毎日のように

作ってくれていたが、忙しいのと、ジューサーでするので、後始末が大変なのとで、

ここのところしていなかった。私が肝臓が悪いので、肝臓に良いと聞いてしてくれていた。

そしたら、自分ですればよいと思うのだが、それがそう、後始末が面倒なので、つい、

しなかったのである。ミキサーでなら比較的後始末が簡単なのでする気になった。

ミキサーにまずバナナを入れ、次に豆乳、牛乳、蜂蜜の順で入れ、ミキサーを回す。

早速飲んでみた。とてもおいしかった。今日は、私一人なので、お隣のご夫婦にも

飲んで頂こう。いばらくすると、おいしかったよ、と電話。良かった。


親の介護と私の成長

私は、実家の、88歳の父と、81歳の母の介護に奮闘しています。

母は、隔日に人口透析に行っているので、毎日のように

しんどい、ということで、ほとんど、寝たり起きたりで、

家事は、父と、 ヘルパーさんがしています。

父も、週、3回、点滴に近くの病院に通院しています。

父は、足が悪いので,杖をついて50メートルくらいしか

歩けないので、足のつく自転車でなら、なんとか一人で

通院してくれています。

最近、母が、透析直後に、心筋梗塞を起こしかけて、

救急車で運ばれ、4日程入院しました。

私と妹の二人とも嫁いでいるので、実家は、両親二人で

暮らしています。男の兄弟はいません。

入院中のことです。

母は、心臓カテーテルの検査で、腕を圧迫止血していたので、

手が、紫色に変色するほどで、かなり痛がっていました。

そこへ、主治医の先生が、検査の説明をしますということで、

私と妹は、痛がっている母を病室に残して、別室でビデオを

見ながら説明を受けていました。30分も経過していました。

心の中で、私は、母の不安を感じてはいました。

案の上、帰るなり、母の激怒は爆発しました。

やっぱり、一人残ればよかった。瞬間私は思いました。

泣き、叫び、言いたい放題、

こんなに私が苦しんでいるのに、それでも娘か、

というわけです。二人で何を言ってもおさまりません。

そのうち、時間か過ぎ、痛みがおさまってくると、

だんだん、やっとおさまってきました。

母は、人一倍、不安症で、一人ではどこも行けない

人なんです。母との対応に、ほとほと、二人とも

疲れはてました。

ふだんから、私が、実家から5分ほどの距離にいるので、

ほとんど毎日のように、なにかあると出向いています。

日に何回もということもめずらしくありません。

反面教師と思うこともあります。

形が本物になったとき

姑が74歳で心不全で急死したときは、舅は、81歳であった。私が嫁いで20年目であった。

一人残された舅をそれから17年世話してきた。小売の自営業であったので、姑、舅が健在のころは、

店の2階に私たちと子供が住み、歩いて3分ほどのところに、姑と舅が住んで、毎日店に通ってきていた。

昼間はずっと一緒で、食事も一緒だった。ひとあし先に帰った姑が、1階の洋間で倒れているのを発見した

のは、店を閉めてから帰った舅であった。予想もしていなかったことで、なにがなんやらわからないまま、

仮通夜、本通夜、告別式とすすんでいった。最後のお別れで、まさに御棺のふたを閉じようとしたとき、

舅は、わしも一緒に入れてくれ、と叫んだ。

舅は、明治38年生まれで、私にとって、お世辞にもやさしい舅ではなかった。

親が白を黒と言っても、はい、そうです、と言え、と言われてきた。いっさいの口答えは、許されなかった。

いつも、怒ってばかりいたし、何か気にいらないと、戸をピシャと閉めて機嫌の悪いことをあらわした。

若かった私は、どれだけ涙を流したことか・・・・・・姑にもよく怒っていた。それがつらいと言っていた。

だが、こと商売にかけては、熱心で、まじめによく働いた。本もよく読んでいたし、新聞は、3社ほどとって

いたが、くまなく見て、切り抜きもして、スクラップしていた。

だが、そのころは、私は、舅を、恐い人、難しい人、でしかなかった。こんな人の世話なんか、とても出来ない、と思っていた。

告別式の後、私は、位牌の姑に、おじいちゃんのことは、私が、不自由ないよう、ちゃんとお世話しますから

どうぞ、安心してくださいと誓った。

今までのことは、いっさい、忘れることにした。

それからは、舅がどこに行くにも私が付き添った。

店に一緒に住もうと言ったが、1晩泊まっただけで、もと住んでいた家に戻ってしまった。

昼間は店に出てくるので、一緒に食事できたが、店が休みのときは、出てこないので、昼、晩と

毎日食事を運んだ。朝は、前の晩、帰るとき、朝に食べる分を舅の欲しいものを聞いておいて、

持って帰ってもらった。家族で出かけるときも、必ず、舅も一緒に連れて行った。

初めは、責任感、義務感からであった。告別式のあとから、私と主人は、毎晩、寝る前、様子を見に

舅のいる家に行った。姑のような死に方はもうさせたくなかった。そのうち、もう来るな、とうるさがられた。

今度は、毎晩、寝る前、舅に電話をかけつずけた。なんや、という声を聞くと、おやすみ、と言って切った。

舅が入院したのをきっかけに、もう、一人ではおいておけない、と思った。退院するまでに、店を少し

ちじめて、主人は、舅のために、突貫工事で、一部屋造った。店の奥は、台所しかなかった。

足の悪い舅を,2階に住まわせるわけにはいかなかった。

退院のとき、強引に、店に連れて帰った。

それからは、なにをおいても、まず、舅のことを第一に考えた。

ここは、おじいちゃんの席、食べるものは、まず、おじいちゃんから、おいしいものは、一番におじいちゃんに、なんでもおじいちゃんを第一優先にした。下の息子が,僕らのことは、どうでもいいんか、と文句を言った。それでも、耳をかさず、あいかわらず、おじいちゃんを家族で第一に扱った。私がいないとき、その息子

が、おじいちゃんにやさしく接していてくれるのを、偶然見て、良かった、と思った。

私自身、いつのまにか、自然に、心から、舅のことを気にかけてることに気ずいた。

娘が大学を卒業して、就職し、初めてのお給料を頂いたとき、京都の民宿の宿泊券を2枚くれた。

パパとママ二人で行って来て、おじいちゃんの世話は、私がちゃんとするから。

嬉しかった。子供が出来てから、夫婦で旅行などしたことがなかった。

だが、次の瞬間には、、舅のことを思った。舅は、旅行が好きだった。

おじいちゃんも連れて行ってあげたら喜ぶだろうな、と。

娘は、二人で行ってほしかったようだが、結局、舅の宿泊券を私達が買い足して、

舅と3人で行くことになった。車で出発直前、娘が、急に、10分待って、と言う。

なにかと待っていると、はい、お昼のお弁当、と言って手渡した。

どこにでも入って食べるからいいのに、と言いながら、やはり、心使いが嬉しかった。

娘のお蔭で、私達にとって、親孝行旅行になった。

舅は、亡くなる半年前くらいからほとんどベッドの上だった。

流動食を一口、一口さじで、食べさせた。

主人が、一週間の東京出張を2日後に控えたある日、舅は、突然意識を失った。

留守中の不安を訴える私に、主治医は、病院で預かってもらうよう、頼んでくれた。

出張から帰っても、そのたび、また意識を失うので、なかなか家に連れて帰れなかった。

そのうち、だんだん、眠ってるだけの状態になった。

昼間ずっと付き添って、夕方、主人と交代して、夕食を作りに交代した。

ある日、家に着いたとたん、すぐ来い、と主人から電話が入った。

私は、すぐ病院にとってかえした。

もう、主人の妹たちも来ていた。

2,3分後、ご臨終です。と言われた。

誰ひとり泣かなかった。

私ひとり号泣していた。








私の生花

私は、下の子が一才くらいの時、お昼ねしてくれている時間を利用して、好きなお花をならいはじめました。

けいこ場が近くだったこともあって、家業の商売を手伝いながらなんとか続けて、早二十八年。

この頃は、親の介護も加わりましたが、お花だけはなんとか続けています。

これからは、お花を生かしたお仕事が出来たらと思っています。