仏教の基本は、シンプルに表現すると苦しみをなくす教えだと理解している。

それには苦しみの原因となる煩悩を断ち切り、無我となる、、、。

では、無我は無感情であるかといえばそうではないと思っている。

そこには、穏やかな快楽ともとれる感情の流れがあるはず。

私は、はるか数十年前、病気による脳の言語を司る部分が停止した経験がある。

思考停止?よくわからないけど、思考が言語に変換できない。

その気持ちの悪さは今でも鮮明に記憶している。

思考が停止することの体感的気持ち悪さといったらこの上ない。(体は動く)

これが、仏教の無我であるはずがない。

多幸感ではないにしても、必ず穏やかな感情に包まれているはずと思う。

で、最近、思いもかけぬショックな出来事があり、一晩泣き明かした。

けれど、またまた地蔵菩薩の計らいにより瞬時に助けられる🙏

状況は何も変わらぬままなのに極端すぎて、私は感情の外に放り出される。

非常に有難いことなのだけれど、贅沢すぎる悩みなのだけれど、

感情がフラットになりすぎて、これはまたこれでどうしようと思ってしまう。

多少の感情の浮き沈みも、多少の快楽を生み出すのではないか?、、、

 

うそですよ、地蔵菩薩様。有難き、有難き🙏

おんかかかびさんまえいそわか