相模国分寺と逆川(さかさがわ)

 

国分寺跡が、大正10年(1921){史跡名勝天然記念物保存法}に指定されました。丁度指定100年周年を迎えたました。相模国分寺跡のある海老名市の「海老名ガイド協会」の皆さんが、説明会を模様してくれました。一度説明を聞きたいと思っていたので、丁度良い機会と出かけました。

 

相模国分寺跡

 

小田急線の海老名駅で下車、駅前の中央公園(ショッピングセンター)に向かうと、中程に「七重の塔」が建っています。実際の3分の1の大きさで、作られています。ウオーキングで此の辺を歩くときの集合場所になる所です。

 

小形の相模国分寺の七重の塔

 

塔を見て、左に行き、交差点を右に曲がると正面に丘が見え、突き当りの小道を登ると丘の上に出ます。相模国分寺跡は、その丘の上に有ります。 

 

 

坂を登って少し左に行くと、相模国分寺跡が見えます。向かいに、海老名温古館(元海老名村役場)が有り、国分寺の事が判る資料が展示がされています。

 

 

海老名温古館

 

国分寺の全体 絵

 

立体模型

 

展示品に、発掘された塔の水煙の一部、金銅製 

 

発掘された瓦

 

発掘で判った、相模国分寺跡地の地図(青い線は、逆川跡で、細い線は想定。現在住宅のため確認できず)

 

相模国分寺跡

741年に(天平13年)聖武天皇は「鎮護国家」を目指し、全国68カ所に国分寺・国分尼寺の建立を命じました。相模では海老名の地が選ばれました。発掘調査のより東西240m、南北約300mです。中門から北に向け、左に七重の塔、右に金堂、正面に、講堂、左に鐘楼、右に経蔵、講堂の、後ろに僧房、その奥に建物跡が左右に各1か所。が確認されます。周囲には回廊・築地塀で囲った「法隆式伽藍配置」で創建年代は8世紀中ごろとの事が判りました。

 

国分寺跡は大正10年に国の史跡に指定せれ。昭和40年に発掘調査が行はれました。

その結果、伽藍配置は奈良の法隆寺と同じ配置で、全国の国分寺でも珍しい配置との事。

 

 

七重の塔 

聖武天皇の書かれた、「金光明最勝王経」が納められたとされ、建物は礎石建で、礎石17個、現存10個で中津川から運ばれたようです。塔は一辺10.7m、高さ約65m。

 

金堂

釈迦三尊が納められ、建物は東西約40m、南北約31m、高さ1mの基壇の上に建てられていた様です。

 

講堂

発掘調査に平面規模から金堂とほぼ同じ。

 

僧房

3間×2間を一部屋として9部屋を確認。

 

南に向かって、回廊跡と中門跡

 

現在の相模国分寺

奈良時代の国分寺跡から南に5~600m行くと有ります。

新編相模国風土記稿に絵が有る様に、中央の丘の上に有ります。

 

現在の相模国分寺

奈良時代の国分寺跡から南に5~600m行くと有ります。

新編相模国風土記稿に絵が有る様に、中央の丘の上に有ります。

 

 

 

 

梵鐘は鎌倉時代に造られた梵鐘で、正応5年(1295)、寄進者は源季頼、作者は大和権守 物部国光という事で、国の重要文化財に指定されています。

 

 

奈良時代の相模国分寺も、全国で、めずらしい逆川の話も有ります。

「逆川」(さかさがわ)

相模台地の向こう側(東側)を流れる目久尻川は、北から南に向かって流れています。逆川は目久尻川から枝分かれして、途中からUターンして高台の国分寺まで、高低差10m近く遡って南から北へ流れていたことなり不思議です。

奈良時代、国分寺の建設にあたり、資材を船で運んだとされています。船着き場跡も見つかりました。資料館で展示していた瓦にから、瓦等の資材は、横須賀・秋谷の乗越瓦窯(のっこしがよう)で焼かれた物の様です。 相模湾から相模川を上り、目久尻川から上がって来たと解釈されたのです。

 

逆川の跡は、今は道路になっていて。船着き場跡も確認されています。

 

 

船着き場跡とされる場所

 

 

一説によると大化の改新の頃、(7世紀中ごろ)海老名の耕地の灌漑用、資材の運搬用に掘られたとみられる水路で、一般の川とは逆方向に流れる事から、着いた名前と言われています。高台にある、国分寺跡付近には船着き場と見られる遺構や、逆川の流れる道路状遺構が調査で解りました。

また一方では、奈良時代には、国分寺を建てる際の、瓦などの資材は、横須賀の乗越瓦窯(秋谷の近く)から相模湾を渡り、相模川をさかのぼり、寒川から目久尻川で上流に運んだようだとされています。

1949年に国学院大学の樋口清之教授と学生らが発掘作業をし、船着き場の跡が判りました。

 

国分寺にさかのぼる逆川(さかさがわ)は、どのような構造かは、今だ、はっきりと解明されていないようです。