【転載記事です】 『銀河鉄道の夜』に見る霊的法則 ① | かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

ご訪問、ありがとうございます。
Yahooブログから引越して来た、かめのしっぽ☆です。

大好きな飛行機や旅のこと
飼い猫や家族ネタも盛り込んだ記事を、日々、綴ってまいります。
読んで大笑いしていただけたら、幸いです。

宮沢賢治、という名を聞けば
すぐにいくつかの作品を思い浮かべる人が多いと思う。

『雨ニモマケズ』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』
『よだかの星』『セロ弾きのゴーシュ』・・・などなど
ちょいと有名どころを並べてみたけど

私、個人的に好きなのは『やまなし』

小さな谷川の底を写した二枚の青い 幻燈げんとう です。
という書き出しから始まる作品は
小学生だった私の心を丸ごと捕らえてしまい
1行読むほどに、すぅ~っと、異次元の空間に吸い込まれてしまうような
不思議な感覚になり
いつの間にか、2匹の蟹の兄弟と一緒に
「クラムボン」をまぶしく見上げていたのを思い出す。

一体、この作品を書いたのは、どういう人だろう、と
図書室に行って、上に記した書物をいくつか手にとってみたけれど
子ども向けのおはなしと言えど
普通に考えても、結構、残酷なことがすら~っと書かれていたりして
単純に、面白かった~!とは言い難かったのを覚えている。


大人になった今、ヴォイトレの練習曲で『雨ニモマケズ』と再会し
歌いながら、へー、と思ったこともあるけれど

『銀河鉄道の夜』という作品が
実は、相~当~、内容的に深いものだった、ということを
この記事を読んで知り
思わず、凄い!と唸ってしまった。


その内容を、是非、みなさまがたにも読んでいただきたくて
転載させていただくことにしました。

8回のシリーズものです。
今回は、その1回目~♪

では、どうぞ。



転載元:イエス様の救いを日本に
『銀河鉄道の夜』に見る霊的法則①


農学者であり、
童話作家として有名な
宮沢賢治(1896~1933)が、
聖書も良く読んでいたということは、
その作品を読めばわかる。
もちろん、彼はクリスチャンではない。
彼は『法華経(妙法蓮華経)』を熟読し、
それを座右の書としていた。
有名な「雨にも負けず」が
記されたメモ帳には、
たくさんの仏たちの名も
記されていたくらいである。

しかし、彼の作品の遺稿となった
『銀河鉄道の夜』の中には、
十字架が登場し、
クリスチャンたちとの会話などもあり、
キリスト教信仰が積極的に
取り上げられている。
そしてその作品の中に、
数々の「霊的真理」を
読み取ることができるのである。

とても一回では記しきれないので、
いくつかに分けて記すことにする。

なお、ここで引用する作品は、
著作権の問題のない
「青空文庫」からの引用である。

さて、そもそも銀河鉄道とは、
死後の世界を旅する鉄道である。

主人公のジョパンニは、
彼の夢の中で、
友達のカムパネルラと
銀河鉄道に乗っていた。

そのカムパネルラは、実際、
ある友達、それもあまり「良い子」ではない
ザネリが川に落ちたところを助けて、
身代わりにおぼれ死んでいたのだった。
ジョパンニは、まだそれを知らずに、
その夢を見ていた、ということなのである。

その銀河鉄道の中では、
さまざまな人たちとの出会いがあるのだが、
その人物たちの中には、
たくさんのクリスチャンたちも
登場している。

そのクリスチャンたちが現われる前に、
リンゴの香りが漂う、ということからして
印象的である。
私も、礼拝や集会の中で、
御霊のご臨在を感じる時、
よくリンゴの香りを感じるのである。

さて、どうやら彼らは、
あの有名なタイタニック号に
乗っていたクリスチャンたちであり、
自分たちよりも他の人たちに
ボートを譲ったために死んだ人たちのようだ。

特に、青年と女の子と男の子の三人と、
ジョパンニたちは会話することになる。

その会話の中で、
次のような箇所がある。

クリスチャンたちが下車する時が
近づいて来た、ということを
青年が告げると、男の子は
もっと乗っていたいと言った。
それに対するジョパンニの言葉の箇所から
引用することにする。

ジョバンニがこらえかねて言いました 。
 「僕たちといっしょに乗って行こう 。
僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ 」
「だけどあたしたち 、
もうここで降りなけぁいけないのよ 。
ここ天上へ行くとこなんだから 」
女の子がさびしそうに言いました 。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか 。
ぼくたちここで天上よりも
もっといいとこをこさえなけぁいけないって
僕の先生が言ったよ 」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるし 、
それに神さまがおっしゃるんだわ 」
 「そんな神さまうその神さまだい 」
「あなたの神さまうその神さまよ 」
「そうじゃないよ 」
「あなたの神さまってどんな神さまですか 」
青年は笑いながら言いました 。
「ぼくほんとうはよく知りません 。
けれどもそんなんでなしに 、
ほんとうのたった一人の神さまです 」
 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人ですよ」
「ああ、そんなんでなしに、
たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」
「だからそうじゃありませんか。
わたくしはあなたがたがいまに
そのほんとうの神さまの前に、
わたくしたちとお会いになることを祈ります」
青年はつつましく両手を組みました。
女の子もちょうどその通りにしました。

引用は以上であるが、
ここで、思いがけず「神様論争」に
進展しそうになっている。
もちろん、青年も女の子も、
聖書に記されている神様を
「神さま」と言っているわけであるが、
それに対してジョパンニは、
やはり唯一の神様ではあるが、
「ああ、そんなんでなしに、
たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」
と言っているところに注目である。

つまり、「そんなんではない神様」、
言い換えれば、
キリスト教の神様とか
聖書の神様とかいう表現ではない
「ほんとうのほんとうの神さま」を
ジョパンニは主張しているのである。
そしてすなわちこれは、
宮沢賢治の主張であることに
間違いない。

しかし私は、これこそ、
本当の神様であると確信する。

つまり、「キリスト教の神様」という言葉は、
本当の神様を指さす指である。
指は神様そのものではない。
ここを混同してはならない。
しかし、今までのクリスチャンたちは、
これを混同して、
キリスト教の神様、
聖書の神様だけが唯一の神様だと
主張してやまなかった。
これは誤りである。

宮沢賢治が、どれほどこの真理を
悟っていたかは知る由もないが、
この童話の中で、
彼の真実がほとばしり出ていることは
間違いない。

本当の神様は、
どのような言葉であっても
とらえることのできない
唯一絶対の神様なのである。

アーメン