【転載記事】 私はイエス様に救われたのだろうか | かめのしっぽ☆'s ふらっと ふらいと ~旅ときどき日常~

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大好きな飛行機や旅のこと
飼い猫や家族ネタも盛り込んだ記事を、日々、綴ってまいります。
読んで大笑いしていただけたら、幸いです。

転載記事です。

この記事を読んで
本当に、その通り!と心から思いました。
是非、ご一読下さいませ。



転載元:『私はイエス様に救われたのだろうか』
      Yahoo!ブログ「これが真理である」


神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく
主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(『Ⅰテサロニケ』5:9)

私が救われた時
御霊によって
神様がおられることに対する
絶対的な確信が与えられた。
その瞬間に人生が変わり
私は新生した。

これは、この二十数年間、
微動だにしない確信であり
もちろん、変わるわけがない。

しかし、救われた時、
ひとつの疑問が生じた。
それは、
「私はイエス様に救われたのだろうか」
ということであった。

イエス様の十字架が、
私が神様から離れていたためだった、
ということを認めて
悔い改めた時、
御霊が下り、私は救われた。

ならば、理屈の上では
私はイエス様によって救われたわけであり、
もちろん、それを否定するわけではない。
しかし、あくまでも体験として言うならば
イエス様が私の所に来て
御手を差し伸べられて
その御手によって救われた、
という感じではないのだ。

イエス様によって救われたのなら
そのような体験、感覚があるはずではないか。

先輩クリスチャンに
この疑問を言っても
これも当然のように、
「あなたはイエス様によって
救われたのですよ」
ということを言われるだけだった。
牧師に聞いてみようかとおも思ったが
間違いなく、疑いの冷たい目で見られることが
よくわかっていたので、聞かなかったが。

それから、二十数年間、
この疑問は晴れることはなかった。
しかし、主は私に御言葉を通して
真理を教えられ
私は誰に学ぶともなく
ついに、この疑問が解けた。

創造主なる神様は
私を救うため
御子イエス様を地上に送られ
十字架につけられ、
イエス様をよみがえらせ
その事実を信じる者は
御霊によって救われるという
救いを与えられた。

このことに気づいた。

いや、これはクリスチャンなら
だれでも知っていることではないか
ということになるであろうが
このことが本当にわかった。

つまり、
私を救われたのはイエス様ではないのだ。
父なる神様なのだ。

イエス様の十字架は、
私を救うための契約なのだ。
イエス様ご自身、
「これはわたしの契約の血です。
多くの人のために流されるものです」
(『マルコ』14:24)とおっしゃっているではないか。

私を救ったのはイエス様ではなく、
イエス様によって与えられた
新しい契約によるのである。
だから、今は新約時代なのである。
イエス様は、新約なのである。

このことを知らず
儀式的にぶどう酒や
ぶどうジュースを飲んで
御言葉通りに行なっていると
自己満足しているということは
なんと馬鹿馬鹿しいことだろうか。
新しい契約を飲め、
つまり、イエス様の十字架の贖いが
何のためにあるのか十分理解して
それを信じて救われよ
それを述べ伝えよ、と
イエス様はおっしゃっているのに
杯を飲んで、パンを食べて
それで満足してるのは何ということか。

そして、イエス様はお優しい方だとか、
イエス様は愛の方だとか
本当にあなた方はそれを信じているのか、
と思うほど、
イエス様を理想的なお方として描き
それを歌にして歌い
それでイエス様を述べ伝えていると
満足しているのか。

私はこの重要な救いの真理を
もっと早く教えられるべきだった。
でも、教えてくれる人はいなかった。

これからは、私が教えて行かねばならない。

アーメン




先日、クリスチャンの友人の
「是非、来てよ!」という誘いがあって
福音伝道を目的とする、とあるコンサートに行ってきた。

演奏そのものは
プレイヤーひとりひとりが、救いを体験し
御霊に満たされて、一致した賛美を捧げている人たちだったので
聴きながら、同じ霊の流れを感じることが出来たけど


驚いたのが
会場に足を運んだ人の少なさ・・・。

時間と手間とをかけて、念入りに準備した、と思われるのに
実際に客席に座っていたのは
そのコンサートの主催教会や、その関係者ばかりだった様で

いわゆる「外部」のニンゲンは
ほんの数人だったらしい。

おかげで、誘い合って会場に行った私たちは
主催教会からしてみれば、見知らぬ新顔・・・!

自分の教会の信徒が「新顔」を連れて来た!と思えば
これはもう、しめたもの
(と、思っちゃうよね💦 ←こういうの、凄くヤダ!)


ゆえに、「招き」のメッセージとやらを
舞台の上から、その教会の牧師先生が
マイクを手に熱~~~く語っていたけれど

その視線はがっつり!私たちに向けられ
ロック・オン!状態だったことが
ちょっと気持ち悪かったナ~。

「あなたは何を信じて生きていますか?
 信じるべきお方は、ただおひとり、イエス様です!
 イエス様は、あなたのことを愛しておられます。
 あなたは罪人なのです。
 その罪を、代わりに負って死なれたのが、イエス様なんです!
 さあ、あなたもイエス様を信じて下さい。
 そして、イエス様の愛を受け取って下さい。
 次の日曜日、どうぞ私たちの教会に来て下さい。歓迎します!」


・・・だ~か~ら!!!
もうイエス様のことは知っていますよ。
そして、御霊の働きによって、救いを体験し
新生体験、ちゃんと、していますってば!

と、言いたかったけど
やめた。


そして、そのコンサートが終わり
会場を出ようとしたら
その出口のところに
先程、「招き」のメッセージを語った牧師先生が
ご自分の教会のリーフレットを手に立っていて

どうやらそれを私たちに手渡しして
二言三言、話をしたかったらしい。。。


ところが、演奏者のひとりと私たちは
既に顔見知りだったので
「あら、久しぶり~」とその方から、声をかけて来て

その光景を見ていた、牧師先生
「・・・・・・えっ?」という顔をされ
まるで、肩透かしを食らったかのような表情をされていたけれど

なんというかな

自分がイエス様を信じたら
次は、家族や友人などを教会に連れて来なさい、とか
イエス様を信じていなくても、教会に通っていれば
そのうち信じられるようになる、とか
どんな人でも、神様の愛を持って、教会は受け入れるべき、だとか
もう、その手のハナシはうんざりだ。


そんなことより、まずは、救いについて
しっかりと解き明かされた土台に立って
先に救われた先輩クリスチャンの救いの証し、だとか
牧師先生の神様体験の証し、だとか
生きた証、いのちある本当の体験談が聞きたい。

そこに御霊がはたらけば
理論や理屈で固められた解釈など
一方的に強く押し付けられずとも
なされていくことがあるはず、と思うのよね。


誘ってくれた友人とは
表向き、同じ信仰者の括りの中にあるけれど
肝心な信仰の話が、通じない。

救われて、同じ御霊が投げ入れられているのなら
それはアリエナイだろうに、と思うけど

救いの喜びと感謝、その恵みの深い分かち合い
そして、御言葉にある深い真理を正しく理解して
互いに交わることが出来たなら・・・

少なくとも、自己主張を押し付けるようなことは
して来ないはずなんだけどな~。

救われたのは、何によるものなのか
転載元の記事を読んで、ただただ、Amen!と思うばかりだった。