※今回は1万字程度の小説になります。
(読了目安:20分)

長文やホラー系の物語が苦手な方は、ご注意ください真顔

※USJハロウィンのゾンビさん好きすぎて、ついに物語を書いてしまいました昇天
ゾンビさん達の仕草や行動、衣装の汚れ具合、パーク内で流れるBGMなどを合わせて想像した物語となっております。

*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*



一 、

   甘い香りが鼻先をくすぐっていく。
   宙を舞い遊ぶそよ風が、春の花々の匂いをその身に纏わせ、辺りにふわりふわりとまき散らしている。

「良い季節になったわ」

   空を見上げて穏やかに呟くと、ミザリーはカゴの中の洗濯物を竿に手際良く干していく。

   風にはためくシャツやタオルに、空からの陽射しが燦々と降り注ぐ。
   春先は乾きが早いので、とても助かる。
   最後の1枚を干し終えて、ミザリーは「ふう」と大きく息を吐いた。

   ――と、背後からパタパタと軽やかな足音が響き、次いで鈴の転がるような愛らしい声がする。

「ミザリー、奥様がお呼びよ!」
「ええ、今行くわ」

   走り寄ってきたのは、メイド仲間で無二の親友でもあるクレアだ。
   歳も16と17で同年代、それぞれが故郷の孤児院で育ってきたという生い立ちも同じなので、彼女達はすぐに打ち解けあった。
   クレアは大人びた端麗な面立ちで、儚げな雰囲気を纏いつつも気立てが良く、頼りになる。
   ミザリーにとって、何より大切な存在だ。

   肩を並べて2人で微笑みながら歩きだす。
   ミザリーの左右に結った三つ編みが、心地良さそうに春風に揺れる。

   ミザリーは、両親の顔を知らない。
   生まれて間もなく、孤児院の前に捨てられていたそうで、このローレンス家に使用人として引き取られるまで、孤児院で育てられた。

   孤児院での生活は、悲惨極まりなかった。
   大人達からの日々の"叱責"と"躾"で、孤児院で暮らす子ども達の身体には、薄まる間もなく色濃い痣が次々につけられた。
   さらには、常々「薄汚いおまえ達は神にも見放されたのだ」とも言い聞かされてきた。

   たしかに、自分が大人達から酷い目に遭わされているとき、部屋に飾られた聖母マリアや磔刑されたキリストの像は視線を逸らし、こちらを見ようともしなかった。
   神は見苦しいものから目を背け、ただ美しいものばかりを見ているのだろう。
   幼い頃から、ミザリーはそんなふうに思ってきた。

   ならば、その神が美しいと思う世界とは、どんなものなのだろう。
   ふとした瞬間、今でもそうした疑問が彼女の脳裏に湧き起こる。



二、

「奥様、いけません!  こんな大層な品物を私達が頂戴するわけには……」

   戸惑いを露わにして告げると、クレアとミザリーはそのまま困ったように顔を見合せた。
   そんな2人を見つめながら、妙齢の女性――シェリルが柔らかな笑みをこぼす。

「豪華なものじゃなくて申し訳ないけれど、あなた達のために大切に仕立てたのよ。受け取ってくれると嬉しいのだけど」

   シェリルの両手には、それぞれ綺麗に折りたたまれた桃色と山吹色のワンピースがあった。
   春先に咲く鮮やかな小花が品良く散らされた柄で、襟元には赤い紐で結われたリボン。
   年頃の2人にとっては、心惹かれてやまない衣装だ。

   けれども、使用人の自分達が身に付けて良い服でないことは重々に承知していた。

   困惑顔で立ち尽くす2人に視線を合わせるように腰を屈めると、シェリルは穏やかに微笑みながら、2人の手にそれぞれ服を渡してやる。

「いつも、助けてくれてありがとう。ささやかだけど、あなた達が喜んでくれますように」
「奥様、本当にありがとうございます!」
「一生、大切にします!」

   頬を上気させ、瞳を潤ませながら、それでも溢れんばかりの笑顔をみせる2人に、シェリルも一層、目元を和らげて応えた。

   ミザリーが仕えるローレンス家は、主のレオナルドと妻のシェリル、そして2人の息子であるテオドールの3人家族だ。

   今年7歳になるテオドールは知能に遅れがあり、周囲の人々とは意思疎通がほとんど出来ない。
   そんな息子が落ち着いて過ごせるようにと、ローレンス夫妻は都の中心地から、田舎の郊外にある別邸に引っ越して静かに暮らしていた。

   屋敷には一家の他に、女中のミザリーとクレア、そして下男のアランがいる。彼は、2人よりも少し歳上で今年19歳になる。
   もう一人、年配の料理番のトールがいたが、彼は持病の治療のために先月から都に戻って自宅療養の身だ。

   使用人の数は少ないが、とかくシェリルが働き者で、一連の家事からテオドールの世話まで自ら率先しておこなっていた。
   彼女はさらに心優しく、使用人達にもいつも分け隔てなく丁寧に接してくれる。

   ミザリーにとって、まさにシェリルは女神のような人であった。
   そのシェリルに、ミザリーは以前、「奥様がこの世で一番美しいと思うものは何か」と問うたことがある。
   彼女は迷うことなく「テオの瞳」だと答えた。

   テオドールの瞳はサファイアのような蒼色で透き通り、さらに幼子特有の潤みと煌めきが加味されて、申し分なく麗しい。

   シェリルのその言葉を聞いてから、ミザリーにとってもテオドールの瞳が何よりも美しいものとなった。

「カモメのおうちはどこでしょう」

   歌うような口調で、テオドールが尋ねた。
   彼は誰とも視線を合わせない。
   ただ、虚空を見ながら、指先をヒラヒラと動かして、誰ともなしに問うていた。

   その彼の片手には、水兵の人形が握られている。
   彼のお気に入りで、朝起きてから眠るまでずっと肌身離さず持っている。

「水兵さんの帽子の中に、カモメのおうちはありました」

   テオドールの黄金色の猫っ毛を優しく撫でてやりながら、シェリルが答える。
   彼のあの問いに答えるのは、決まっていつも母親だけだ。

   母に頭を撫でられながら、しばらくぼんやりと虚空を見つめていたテオドールが、目元を和らげて、小さく「ふふ」と笑い声を上げた。

   ミザリーには分からないが、シェリルいわく「テオが笑うのは、安心しているとき」なのだそうだ。

   母子にしか伝わらない絆のようなもので、2人は繋がっているのかもしれない。
   母を知らないミザリーは、そのことに深く感嘆するばかりだった。




   バシャン、と大きな水音が聞こえて、ミザリーは抱えていた洗濯物を放り出して慌てて池のほうに駆けだした。

   日暮れ近くになり、夕食の支度をしているシェリルに代わって、ミザリーとクレアが庭先でテオドールと遊んでいたのだが、ミザリーは干していた洗濯物を取り込むために一旦、2人から離れていた。

「クレア!  大丈夫!?」

   真っ青になって駆け寄るミザリーの目に、池畔に膝をついて座り込むクレアの姿が映った。
   池を見れば、首元まで水中に浸かったテオドールが泣き喚いている。

「ミザリー!  坊っちゃんが、池に……!」

   蒼白な面差しで叫ぶと、クレアは片手を地面につけ、もう片方の腕を必死に池へと伸ばす。それでも、テオドールには届かなかった。
   ミザリーが、池に飛び込もうとした刹那、背後から大地を蹴り飛ばして馬車馬のような勢いで下男のアランが駆けつけた。

「ミザリー、退いてろ!」
「アラン!」

   ミザリーの悲愴な叫び声が辺りに響くなか、アランが着衣のままで池に飛び込んだ。
   ドボンと大きな飛沫を上げて池に入ったアランは、背まで水に浸かりながらも必死にテオドールの元に寄り、すでに池中に沈み込んでいるその小さな身体を引き上げようと奮闘する。
   ようやくのことでテオドールの肩辺りまで水上に出し、彼の意識の有無を確認すると、アランはそのまま慎重に池の岸までテオドールを引っ張ってきた。

「テオ!   どうしたの!」

   屋敷から飛び出してきたシェリルが、声にならない悲鳴を上げながら池畔に駆け寄り、ミザリーやクレアとともに池中からテオドールとアランを引き上げようと奮起する。
    
   まず、テオドールが岸に引き上げられ、そのままゲホゲホと激しくむせ込んだ。
   池の水を口から吐き出しながら、「あっ、あああ!」と喚き声を上げるが、シェリルに抱きとめられ、優しく背をさすられるうちに少しずつ癇癪も落ち着き、呼吸も穏やかになっていく。

   自力で這い上がったアランも、全身びしょ濡れで、肩で大きく息をしながらも、真っ先にテオドールの無事を確認すると、その場で大きく安堵の息を吐いた。

「ぼ……坊ちゃんが、蝶を追ってそのまま池に……」
   
   震えながら涙声で告げるクレアの背を撫でながら、ミザリーも安堵の息をついていると、庭の奥の方から主人のレオナルドが姿を見せた。
   彼は事態がよく分かっていないのか、困惑顔でシェリルとテオドールに近付いていく。

   その一家の様子を見つめていたアランだけが、訝しげに眉根を寄せた。

「坊ちゃんは、あれから発作も起きてないのか?」
「ええ。ずっと落ち着いていて、お夕食も残さず召し上がられたし、いつも通りの時間にお休みになられたわよ」

   淹れたての紅茶に砂糖を入れながらミザリーが告げると、アランが周囲をちらと伺いながら声を低くする。

「クレアは?」
「お風呂よ。もうじき上がってくると思うけど」

   熱々の紅茶に口をつけつつ、ミザリーが答える。その言葉に軽く頷くと、アランはさらに声を潜めて告げた。

「今日の"あれ"、何か変じゃなかったか?」
「変って……?」
「坊ちゃんが池に近付くとか……しかも、その理由が"蝶を追って"って、どこか不自然な気がするんだ。坊ちゃんは今まで"あの人形"以外のものに興味を示したこともないし、ましてや庭に出ても池になんて近づいたことがなかっただろ」
「それは……少しずつ成長されて、ご興味の幅が広がってきたってことじゃないの?   男の子だったら、虫とか好きでしょう?」

   アランが険しい眼差しを向ける。
   ミザリーの弁に納得していないらしい。

「あと、どうして坊ちゃんだけが池に落ちてクレアは岸にいたんだ?   坊ちゃんのそばに居たなら、池に落ちる前にクレアが引っ張ってでも止めるはずだろう。しかも、坊ちゃんは岸から少し離れたところにいた。坊ちゃんの背丈じゃ足が底につかない場所だ。ただ落っこちただけなら、あそこまでいかない」

   眉根を寄せて逡巡すると、ミザリーは手元に視線を落としたままで口を開く。

「突発的な行動で、きっとクレアも間に合わなかったんでしょう。それに、坊ちゃんも驚いて、無茶苦茶に動いたから岸から離れたんだと思うけど」
「なら、あれだけの騒ぎになっても、庭先にいた旦那様が最後に現れたのはなぜだ?」
「植木の剪定でもなさっていて、物音に気付くのが遅れたとか……」
「屋敷の中にいた奥様ですら聞こえていた物音を、外で作業していた旦那様が聞き取れなかったはずもないだろ」
 
   答えるたびに逆に詰問されて、ミザリーは辟易した表情で溜息をついた。

「それで、アランは何が言いたいの?」
   
   けんもほろろな口調で問われて、アランは一瞬、口を噤んだ。やがて、わずかな逡巡ののちに、慎重に言を紡ぐ。

「俺の思い違いならそれに越したことはないけど、旦那様はテオ坊ちゃんを良く思われてないんじゃないか」
「どういう意味?」
「だから……はっきり言えば、邪魔とか」
「アラン!」
「しっ!   声が大きいって」

   たしなめられて、慌てて両手で自分の口元を押さえたミザリーが、顔をしかめてアランに詰め寄る。

「なんてこと言うのよ。旦那様は坊ちゃんを心底愛してらっしゃるわ。たとえ、普通の子とは違っても……」
「俺だって、自分が仕える人達を悪く言いたくなんてない。だけど、実際に坊ちゃんがいるから田舎に引っ越さなきゃいけなかったし、それに伴って公爵としては表舞台から消えざるをえなかった。あと、田舎に越してからは奥様との仲もあまり良くなさそうだし」
「それは……」

   言い淀んだミザリーにも、心当たりはあった。
   田舎に越してから、レオナルドが、人目につかない場でシェリルに辛く当たる場面も幾度となく目にしていた。

   一方で、自分が仕えるシェリルが人知れず深い自責の念を抱えて過ごしていることも知っていた。
   聡明で心優しい彼女は、表には決して出さなかったが、公爵夫人という立場でありながら健常な世継ぎを産めなかったことで、自身を酷烈に責め続けてもいた。

「私は、何があっても奥様と坊ちゃんをお守りするわ。それで、いつか御一家が心穏やかに仲良くお過ごしになられるようにお支えする。これから、奥様にも新しい御子がお生まれになるかもしれないし……未来はどうなるか分からないでしょう。アランの心配なんて杞憂に終わるわ」
「ミザリーのその前向きさは、どこから来るんだ?」
「だって、暗い世界のなかで生きるのはもう嫌なんだもの。小さい頃から散々な目に遭って、このローレンス家に引き取られて、私はようやく穏やかな生活を手に入れたの。素敵なご主人達や、大切な仲間を得られて、少しずつだけど自分が生きる世界にも美しさや安寧を見いだせるようになってきたの」
「そうか」

   目元を和らげて呟くと、アランはポリポリと頭を搔いた。

「俺だって、御一家のこともミザリー達のことも自分の一部のように大事に思ってる。孤児だった俺にも、ようやく落ち着ける居場所や役割が出来て……これ以上の幸福もないといつも神に感謝してる」
「じゃあ、お互いにこれからも力を合わせてこの平穏を末永く守っていきましょうよ。皆がそれぞれの幸せを掴んでいけるように。もちろん、クレアだって同じ気持ちだわ」
「そうだな」

   にっ、と歯を見せて笑うと、アランが深く息を吐いた。

「大事な人を疑うって、嫌だな。胸の辺りがどんよりしてくる。人の優しい部分をもっと信じられるようになりたい。そうすれば、目に見える世界も美しくなるんだろうな」
「アランは、ちゃんと周りの人達の優しさを見てるじゃない。私達みたいな孤児にも、テオ坊ちゃんのように重荷を背負って生きる人達にも、きっと皆と同じようにこの世界にある優しさや美しさを映す瞳(め)と心が与えられていると、私は思う」
「ああ」

   目の前で柔らかに笑うアランを見つめて、ミザリーも微笑んだ。
   願わくは、この穏やかで幸せな時間が末永く続くようにと、切実に祈りながら。



四、

   春の盛りを少し過ぎた頃、料理番のトールが療養を終えて屋敷に戻ることになった。
   買い出しを兼ねてトールを都まで迎えに行くアランを見送ると、ミザリーはいつも通り、洗濯物を干すため庭に出ようとした。

「ミザリー。知り合いから美味しいお菓子を頂いたから、皆でお茶にしましょう。洗濯物は後で私が干すから」

    ――と、室内から穏やかな声に呼び止められた。

「承知しました、奥様。では、すぐにお茶の準備をいたしますね」
「ああ、それならレオがやってくれているのよ。あなたはちょっと、こちらに来てくれる?」

   呼ばれるままに室内に入り、テーブルで作業するシェリルの元に行くと、彼女がにこりと微笑んだ。

「今朝、アランが庭で綺麗な花をたくさんつんで来てくれたの。それで、これをミザリーとクレアにと思って」
「わぁ、すごく綺麗!」

   色とりどりに咲く花々を2つの花束にまとめて、それぞれ淡い色の紙とリボンで飾り付けたものを目にして、ミザリーは思わず感嘆の声を上げた。
   花を見ると、いつでも心がぱっと華やぐ。

「さあ、テオ。これをミザリーに渡してくれる?」

   シェリルのそばに立ち、「ん、ん」と呟きながら虚空を見上げ、身体を揺らしていたテオドールが、ふと母親の方を見つめ、無言のままで花束の1つを手に取った。

   そして、迷いなくミザリーの前まで歩を進めると、目線は合わぬままで、花束だけを彼女に差し出す。

「お花、どうぞ。ミザリー」
「坊ちゃん……!」

   見開いた目で、そのままシェリルを見ると、彼女もまた驚嘆の眼差しを愛息子に向けていたが、やがてその目が柔らかに細まり、じわりと潤んだ。

「ありがとうございます、テオ坊ちゃん」
「ん」

(……坊ちゃんも、私達が気付かないだけで、こんなにもしっかりと成長されている)

   何事もなかったように母のそばに戻るテオドールを見つめながら、ミザリーの目にも熱いものが込み上げてくる。

「ああ、ミザリー」

   ――と、ちょうどお茶の用意を持って現れたレオナルドが彼女を呼んだ。

「物置で作業しているクレアも呼んで来てくれないか」
「はい、今すぐに」

   服の袖でこっそりと目元を拭うと、ミザリーは花束をテーブルの隅に置いて、急ぎ足で廊下の奥にある物置に向かった。

「クレア、奥様達がお呼びよ。皆でお茶をしましょうって」

   薄暗い物置に入り、奥の方に向けて呼びかけると、部屋の隅でカタリと音がした。

「ミザリー、ちょうど良かった。ちょっと手伝って欲しいことがあるのよ。奥まで来てくれる?」
「ええ、今行くわ」

   窓もない石壁の部屋は、春の陽射しもまったく届かず、しんとした冷たさが背筋を這うように伝わってくる。
   ふるりと身を震わせて、己の腕を擦りながら進むと、暗がりにクレアの影がぼんやりと見えた。

「クレア、何を手伝えば良いの?」
「ここにある袋を廊下に出して欲しいのよ」
「分かったわ」

   目を凝らせば、床上にいくつか積まれた麻袋があった。その1つを掴もうと、ミザリーが腰を屈めた刹那、後頭部にガンッと鈍い痛みが走る。
   呻く間もなく2発目の衝撃が頭部を襲い、ミザリーはその場に倒れ込んだ。

   熱をはらんだ鈍い痛みがじわじわと頭部全体に広がり、気を抜けば意識が途切れそうだ。さらに、視点も上手く定まらない。
   はくはくと小さく動く唇は、短な文言すら紡ぐことが出来なかった。

「あははっ」

   失心寸前だった彼女の耳に甲高い嗤笑が響いた。
   必死に視線を動かして見上げる先には、手にしたランプの明かりに照らされたクレアの顔がある。
   その顔は、いつもの愛らしいものではなく、醜悪に歪んでいた。

   冷ややかな眼差しでこちらを見下ろしながら、クレアがにたりと口角を上げた。

「このときを、どれほど待っていたか」
「クレア……何を」

   息も絶え絶えに問うミザリーに、クレアが凄艶に微笑む。

「レオと、ついに一緒になるのよ」
「は……」
「無能なガキも、用無しの女も――そして、能天気なアンタも、ずーっと邪魔だった。私とレオが結ばれるためには、アンタ達をまとめて消さなきゃいけないの。"この前"は焦って失敗しちゃったけれど」
「この前……って」
「あのガキの持ってる人形を奪って、庭の池の中ほどに放り投げたのよ。そのまま、ガキは池で溺れ死ぬはずだったのに、アンタ達が騒いだせいで上手くいかなかった」
「なんて……ことを」

   はっ、と口元を歪め、クレアが目をつり上げてこちらを睨む。
   ミザリーが知っている純美な親友の姿は、もうどこにもない。

「邪魔者達は、さっさと死んでちょうだい」
「クレア……どうして」
「私ね、幼い頃からずっと大人達に虐げられてきたの。生まれが貧しかっただけで、どれほどの屈辱を甘んじて飲み込んできたか。――だから、いつか復讐してやろうと思っていた」
「……」
「私を馬鹿にした奴らを、見返してやるの。レオを公爵として復帰させれば、私は悲願だった公爵夫人になれる。そうして、下使いを大勢雇って、優雅に暮らすの」
「あなたは……それで幸せなの?」
「当たり前でしょう。小さい頃からずっと、私は神に祈ってきた。"いつか、復讐のときを与えてくれ"ってね。それが、ようやく叶ったのよ」

   けらけらと声高に笑い、冷酷な笑みを浮かべながら「じゃあね」と吐き捨てるように言って、クレアは踵を返す。
   そのまま、踊るような足取りで入口に向かう。

「クレア……っ!   奥様やテオ坊ちゃんを……どうする気なの!」

   その後ろ姿に浴びせるように、ミザリーは渾身の力を振り絞って叫んだ。

   その声にぴたりと歩を止めると、ちらと顔だけ振り向きながら、クレアが事も無げに言う。

「今頃、もう2人ともこの世にはいないでしょうね。レオが"始末"しているから」
「な……っ」
「屋敷にこのまま火をつけるから、アンタも仲良くあの世に行きなさい」

   言葉を失くしたミザリーを嘲笑うように見つめると、クレアはそのまま前を向き、足をとめずに入口を出て、外からガチャリと物置に鍵をかけた。

「なん……で」

   はらはらと溢れる涙を拭う力さえ残されず、ミザリーは地面に横たわったまま、混濁する意識の中で、苛烈な悲憤に苛まれていた。

   復讐を願うクレアの言葉(こえ)を、神は本当に聞き届けたのだろうか。
   あれほど奸悪な彼女から、神は目を背けなかったのか。
   自分からは、目を背け続けていたのに。
   ミザリーは、神にさえ裏切られたように感じた。

(……誰か、助けて)

   瞼の裏に、柔らかに笑うアレンの面差しが映った刹那、ミザリーの口から嗚咽が漏れた。
   このまま、彼にも二度と会えなくなるのか。

   そう思った瞬間、胸がぎりりと締め付けられた。  
   彼への淡い想いを抱いたまま、このまま自分の人生は本当に終わってしまうのか。
 
   これまで必死に生きてきたのは、一体何のためだったのか。

   底のない絶望と悲しさに気力が全て奪われかけた――が、ミザリーは渾身の力を振り絞って目を見開き、唇を噛み締めた。

   いや、自分はどうなっても構わない。
   だから、どうかシェリルとテオドールを救う手立てを――。

   神がクレアに味方したならば、自分には悪魔でも構わない。どうせ尽きる命なら、せめて自分が仕える人達だけは守って散れるように、このひととき、常ならぬ力をこの身に授けて欲しい。
   代償が必要なら、何でも捧げる。

   彼らは、何も悪いことをしていない。
   ただ、自らに負わされた重荷を抱えながらも日々を誠実に生きていただけなのに。
   そんな彼らが、身勝手な欲望の犠牲となって命を奪われるなど許されるはずがない。

(誰か……誰かッ)

   魂からの激情が言葉にならぬ咆哮となって喉元から溢れた刹那、ミザリーの耳元で何者かが哄笑する声が響いた。

   さらに、すぐそばでガランと固いものが床に当たる音がする。同時に、ミザリーは傀儡のように見えない糸で操られるままに、その場によろりと立ち上がった。

「動……ける」

   呻き、よろめきながら、音がした方に歩んでいけば古びた斧が床に落ちていた。
   迷わず手を伸ばし斧を拾うと、そのまま躊躇なく斧で戸を破壊して、覚束無い足取りで廊下に転がり出た。

   呼吸を整え、広間の扉を静かに開けた。
   ぼやける視界の先に、立ち尽くす2人の人影が見える。
   その足元には、床に置かれた2つの塊。
   よく見れば、仰向けに倒れたシェリルの身体に、額から血を流すテオドールが仰向けでぐったりともたれかかっていた。

「間に……合わなかった」

   肩で息を切らす2人の人影のうち、クレアの手にはわずかに先端が赤く滲んだ角材が握られていた。

「奥様……坊ちゃん」

   はらはらと零れる涙が視界を遮ろうとも、両の足はしっかりと目的地を把握しているように真っ直ぐに進む。

   息をこらし、直前まで気付かれないように進んで背後から2人に近付くと、ミザリーは声もなく斧を振り上げてまずレオナルドを襲った。

   寸前で気配に気付いたクレアが、「あっ」と叫ぶと同時、辺りに紅の飛沫が勢いよく飛び散る。 
   声を上げる間もなく床にくずおれた主人の骸(むくろ)を一瞥すると、ミザリーはクレアと向き合った。

   すっかり青ざめ、涙ぐみながらこちらを見つめるクレアの目は恐怖に染まって見開かれている。

「ひっ……い、いやぁ!   な、何でアンタが」
「私にも、御加護があったのよ。あいにく、クレアと違って悪魔の――だけど」

   淡々と告げると、ミザリーはちらと、シェリル達へと視線を向けた。
   毒を飲まされたであろうシェリルは喉元を掻きむしるようにして、口から大量の血を吐き、凄惨な表情で事切れていた。
   その母の血を触ったのか、テオドールの両手も、そして床に落ちていた彼の気に入りの水兵人形もあちこち血にまみれている。
   
   シェリルがいつか美しいといったテオドールの蒼い目が、虚ろなまま開いて虚空を向いていた。

「この……化け物ッ!   よくも、レオを……っ!」

   悪鬼のような表情で喚き散らすクレアへと、ミザリーは冷淡な面差しを向けた。
  
「やっと……私も幸せになれるはずだったのに!   あいつらに復讐して……幸せに!」

   半狂乱に怒鳴るクレアは、こちらを鋭く睨んだままで、大粒の涙を零す。

「邪魔者さえいなくなれば……!」

   彼女の細腕が角材を頭上高くに振り上げた。
   そうして、ミザリーめがけて力いっぱいに振り下ろす。
   ――が、それより数瞬早くミザリーの手にした斧が空を切り裂き宙を舞った。

「ええ、あの世で存分に幸せになってちょうだい、クレア。誰にも邪魔されることなく、ね」

   間髪入れずに飛び散った飛沫が、床を毛氈のように赤く染め上げた。

「は……っ」

   肩で息をしながら4人の屍を呆然と見つめていたミザリーは、やがて嗚咽を漏らしながら、糸がぷつりと切れたようにその場にへたりこんだ。
   そうして、見る間に正気に戻る。

「ああ……」

   大事な人達を守ることも出来ず、さらには己の手で、家族同然の存在達を屠ってしまった。
   大きな喪失感と自責の念に苛まれ、ミザリーは肩を震わせ泣きじゃくった。

   ――と、どこからかか細い声がする。

「……おうち……は、ど……こ」

   弾かれたように顔を上げたミザリーの目に、小さく動くテオドールの唇が映った。
   彼はまだ、生きていたらしい。

「ぼ……坊ちゃん!」

   床を濡らす大量の血にも構わず這って彼の元に行けば、その唇はかすかに息をしていた。

「坊ちゃん、坊ちゃん!」

   虚ろな面差しのテオドールが、「ふ」と小さく息を吐いた。
   そうして、右の手を動かそうとする。
   もう上がることもない小さな右手には、花束が1つ握られていた。

「ミ……ザリー、おは……な」

   震える両手で、彼の手から花束をそっと受け取ると、テオドールは口元を和らげた。

「カモ……メの……おう……ち……」

   すでに虫の息であるのに、彼はいつもの歌うような調子で切れ切れに問う。
   涙に濡れた顔を綻ばせて、ミザリーは精一杯の穏やかな口調で答えた。

「水兵さんの帽子の中に……カモメのおうちはありました」

   その言葉を聞くと、テオドールが今度は目元を和らげる。
   そうして、焦点の合わない瞳を動かして、初めてミザリーを真っ直ぐに見た。

「坊ちゃん。ミザリーもすぐにおそばに行きますからね。さあ、安心してお眠りください」

   ミザリーの声音に安堵するように、テオドールの瞳はゆっくりと閉じられていった。


五、

「もう、ノアったら!   それは坊ちゃんの大事な帽子なのよ。さあ、返してちょうだい」
「あふふふっ」
「笑って誤魔化してもダメよ」
「きぃいぁぁーっ!」

   ミザリーの眼前で、古ぼけたウサギのぬいぐるみを手にした少女が顔をしかめてベーッと舌を出す。
   が、ミザリーが動じるわけもなく、少女が片手に持っていた水兵帽は難なくひょいと取り上げられてしまった。

「いつものように、"線踏み"でもして遊んでらっしゃい」
「ん!」

   けろりと機嫌を直して向こうにパタパタと掛けていく彼女とすれ違うように、今度は顔中に虫をつけた幼い少年がドタドタと駆け寄ってくる。

「リト、蝶なら向こうよ」

   ミザリーが指さして教えると、少年は両手で顔の辺りを押さえながら方向転換して、そちらの方向に全力疾走していく。
   虫が大好きで、死んだあとも彼は虫を見るとじっとしていられないのだ。

   そんな賑やかな面々から離れた場所にいる水兵姿の少年の元にゆっくりと歩み寄りながら、ミザリーは「坊ちゃん」と名を呼んだ。

   人であった頃と同じく、相変わらずテオドールは誰とも視線を合わさない。
   それでも、取られた帽子を返して欲しいらしく、右手をひらひらと動かしながらミザリーのほうに差し出した。

「カモメのおうちはどこでしょう」

   歌うような口調で問われ、ミザリーはいつものように答える。

「水兵さんの帽子の中に、カモメのおうちはありました」

   その言葉に、テオドールの魂が宿った水兵人形の目元がわずかに和らいだ。

   "ここ"には、様々な事情で死後に天国に上がれなかった存在達が棲んでいる。

   命尽きて魂となった自分達には依り代が必要で、各々が生前に強い愛着を持っていたものが、魂の依り代となっている。
   たとえば、テオドールなら気に入りの水兵人形で、ミザリーなら花束というように。

   神の加護から見放され、"狭間の世界"を彷徨う自分達を救ったのは恐らく悪魔という存在だろう。 
   神と対極をなす存在である悪魔は、しかし、とても甘美な愛情を自分達に向けてくれている。
   神が目を背けたくなるような存在達を、悪魔は慈悲深く救いあげ、こうして"新たな世界"で生き生きと過ごさせてくれているのだ。

   この世界には、差別も裏切りもない。
   誰もが、ほとんど干渉もし合わず、各々の心のままにのびのびと生きている。

   常闇に包まれ、温度も匂いも何もない虚無の世界でも、ミザリーにとっては楽園だ。

   そして、ここには美しいものも多くある。
   それは、人であった頃に焦がれていた空の雄大さや花の鮮やかさ、豪勢な料理や煌びやかな服でもない。
   ただ、闇黒のなかで延々と繰り返される代わり映えのない風景こそが、ミザリーにとって何より美しく映る。

   ボロボロのメイド服に、履き潰した靴、そして永遠に歳を取らない肉体――そんな、自分の身に纏う全てを美しいとさえ思う。

   理不尽になくした命を惜しむこともなく、ただ暗闇を彷徨い続ける日々。
   いつか、この身が地獄に赴くことがあれば、そこでもまた美しいと思うものを見いだせるだろうか。

「ミザリー。帽子」

   いつの間にかそばに来ていたテオドールが、片手に持っていた水兵帽を差し出してくる。
   どうやら、被せてくれと言っているらしい。

「はい、坊ちゃん」

   彼の蒼い瞳を見つめながら、ミザリーは柔らかに微笑んで答えた。

                                                        (了)