2ヶ月程前の出来事だった。
視野障害と失認症状が残った兄は、未だ足元の障害物につまづいたり、柱に肩をぶつけてしまうことも時々あったが何とか一人で病棟のフロア内を歩けるようになっていた。
テレビのある談話室に冷蔵庫があり、時々ミネラルウオーターを入れ替えに行けるようになったことも喜んでいた、そんな時だった。
ある日兄が、
「俺がテレビの部屋に行くと“ちゃんと挨拶をしなさいよ!”と言ってくるおばあさんがいる」
「2回、怒られたな。でも、そう言われてもな、気付かないもんな~」
と言った。
すでに周囲からは普通に見える兄の動作は確かに人から見れば、ゆっくりしていて場合によっては手探りで周囲を確認しながらの様子は不思議に見える人もいるだろう。
そんな兄に対して“常識のない人”としてそのおばあさんは“挨拶しなさい!”と注意をしてきたのだろう。
私たちは誰が言っているのか探して兄の症状をちゃんと説明し、そんなことを言わないで欲しいと伝えようと思った。
でも一方でここが病院であることを考えるとその見ず知らずのおばあさんも何らかの症状を持っている人かもしれないという思いにもなった。
ただ、そのような事で兄が歩くことや人と接することを躊躇するようになったり、精神的ストレスを感じることが心配だった。
元気な時だったら、決してそんなおばあさんに怒られるような振る舞いはしてはいないし 半分元気な症状でこうなっている。そうした自分の症状を悲観してしまう兄が心配だった。
私たちは一先ず病院スタッフへ
「どなたかは分からないのですが・・・、病棟内でこのようなことを言われた方がいるようでして・・・、スタッフの方でご配慮して頂けないでしょうか」
と伝え、対応をお願いした。
その後の対応がどうなったのかは分からない。
ただ改めてこの障害が周囲からどう見られるのか、また様々な誤解を受けるかもしれないということを強く意識した出来事だったかもしれない。
丁度、時を同じくある患者さん(Oさん)と知り合いになれた。
Oさんは兄と同じくらいの歳の女性でとても気さくで話しやすい人だった。
色々な症状を持ちながらも力強く、むしろ周囲にもエネルギーを与えてくれるような人だった。
時々兄と一緒に色々な話をしてくれて、一緒に笑った。もっと早く知り会えたらよかったと思ったがここは病院である。Oさんの退院までの僅かばかりの期間、貴重な時間を頂いた。
兄にとっては家族以外の人とのコミュニケーションをとることにより大いにリハビリ効果があったのではないかと思う。
代えがたきOさんの存在に心から感謝である。
Oさんが退院されてひと月近くが経った今日、例のテレビの部屋で私たちは病院への提出物を出すため書類を書いていた。
そこであるおばあさんから話しかけられた。
「毎日ご苦労様。お宅のお兄さんと最近故郷の話など楽しくさせてもらいました。ありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそ話し相手になって頂きありがとうございます」
「もう少しで私も退院ですが・・・」
「そうですか。それはおめでとうございます」
「あの~、実は前に私、お兄さんのことよく知らずにお兄さんに冷たいこと言ってしまって、本当にごめんなさい」
「・・・」
「実は先日退院されたOさんから、お兄さんのこと聞いてずっと申し訳ない思いでいたんです。」
「いえいえ、退院まで兄のことどうぞ宜しくお願いします。」
そのおばあさんは、ふた月前の出来事から私たちと同じように気にしていたんだと…
そして退院するまでにずっとお詫びをしたかったんだということがよく分かった。
今日、その方と話ができて本当によかった。
色々な辛いことも時が解決してくれることもある。
そして人知れずOさんの温かいご配慮に重ね重ねの感謝である。