「花の墨通信」 14巻8号・号外
(回答)花 墨 汎 潤
ー 相談室「パンセ・ソバージュ」
「全体知をどう回復するか」
その(7-2)
2024年8月21日発行
Q32 『記紀』を書いた伝承者たちは或る程度史実を聞いていて、そのうえに天皇を美化する神話を塗りかさねたわけですか? 日本神話が全面的な<ねつ造>ではではないわけですね?
A32 ええ、歴史家たちも多くがそう言っています。最後の疑問としていったい、<邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)は天皇家の皇祖神天照大御神なのか?>について探求してみましょう。
「『古事記』『日本書紀』ともに、神武天皇のまえには神話の時代があったと伝えている。たとえば『古事記』であれば、全体の三分の一の分量を費やして神話の時代を語っています。
そして神武天皇から五代前の祖先が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)(『古事記』での表記、『日本書紀』では天照大神)という女神であった、と記されているのです。神武天皇が活躍した西暦二八〇年~二九〇年から五代・五十年まえにさかのぼりますと、天照大御神の時代は西暦二三〇年~二四〇年ごろになります。まさに卑弥呼の時代に重なるのです。」
「卑弥呼が天照大御神という形で神話化し伝承化したとするなら、邪馬台国は天照大御神のいた場所ということになります。『古事記』『日本書紀』によると、その場所は「高天の原(たかまのはら)となっています。この「高天の原」とは、邪馬台国が神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。」
「「高天の原」の勢力は、出雲に何回か使者をつかわして、「国譲り」をさせています。その結果、大国主の命の領していた「蘆原の中国」は「高天の原」の勢力に譲られます。「国譲り」が行われたのは、卑弥呼以後の三世紀後半と思われます。」(『ヤマト王権』吉村武彦著、岩波新書刊)
また同書は<日本神話のなかに弥生文化の伝承の影がある>とこう指摘しています。
「『記・紀』の最終的な編纂時期は八世紀初頭であるが、その元資料が文字化されたのは七世紀である。その七世紀に文字化された資料のなかに、私のみるところでは、四世紀以前から伝えられてきた神話・伝説が、いくらか形を変えながらも豊富に盛り込まれている。そしてそのなかには弥生時代にその骨格が形づくられたとみられる神話もあれば、もっと古く、縄文時代に形成されたと考えられる霊力観も、化石化した形で、『記・紀』が収録した神名のなかに埋もれて残っている。」
最後に女神<アマテラスの実像>を探求してみましょう。『アマテラスの誕生』(溝口睦子著、岩波新書刊)はこう捉えています。
「五世紀に、大王家が北方系の天の至高神であるムスヒの神とその神話を導入して以来,ヤマト王権時代は在家のアマテラス系の神々と、新しいムスヒ系の神々とが併存する思想と文化の二元状態が続いていた。その際、ムスヒ系の神は連や伴造氏、アマテラス系は君系一部の氏というように、別々の氏が伝承を分担して保持する、一種棲み分けのような状況が日本では生まれていた。」
「七世紀まで、天の至高神であり日本の国家神でもあるタカミムスヒが坐っていた。」
(明22日へ続く)