「花の墨通信」14巻8号
2024年8月1日発行
by 花 墨 汎 潤
-「ロータス・ワールドへのいざない」
その(178-2)
A596 だからと言って<イエスが十字架にかかれば全人類の罪は消えるのか? > この発想には<合理性>がありません。仮に<イエスが神の子で全人類の原罪を背負うべき存在>だとしても、だからと言ってとうぜん<十字架にかかればその償(つぐな)いが達成できるのか>・・これは疑問です。確信できる<論理的な整合性>がありませんね。その<幻想のいい加減さ>を消すために<イエスの復活>が考えられた感じがありますよ。どう思いますか?
Q596 矛盾はわかります。が、だいたい<原罪>という見方が一般的すぎます。まさに<普遍性>をみるギリシア的な知性らしいですよ。
A597 仏教ではそのひと個人が<過去に積んだ因業(いんごう)>によって現在に<宿命を背負う>というふうにみます。原因―結果の集積ですね。そのためひとり一人がそれぞれ違ったかたちになるので、それをキリスト教のように代表者を<いけにえ>にして<いっきょに解決>するという安易な妄想のルートはあり得ません。
ユダヤ人の発想には遠い時代にすでに<神にいけにえを捧げる>という発想がみえます。伝説の始祖アブラハムは誓いをたてて、その証(あかし)にわが子のいのちを<いけにえ>として神に捧げようとします。神はその真心(まごころ)に感心し、子どものいのちを捧げなくとも良いと許す話が『旧約聖書』に出ています。<いけにえ>は<神との契約>のなかで出てくる<一種の代償>なんですね。
この点仏教の方が明らかに<科学的>です。神という超越者は存在しないので、その人の持っている<いのちの因果関係>のなかでしか<代償行為>は発生しません。シンプル(単純)といえばシンプル過ぎる<宿業観>ですよ。この意味では仏教の方が合理的です。インドの釈迦は<透徹した眼で世界のなかにひそむ自然法則を見抜いていた>と言えますね。かつて自分が書いた<ある疑惑>という詩はこうしたキリスト教の<妄想性>を突いたものです。ついでに掲げてみましょう。
ある疑惑
ひとよ
担っている十字架の重みに耐えて
あなたはどんな地底を渡ろうというのか
なにを贖いにゆくのか
なぜ死の棘で荊冠をつくるのか
ひとよ
世界の破滅の線をあつめてつくる
瘦せ細る思想で
どのようにして胸のなかの死海へ
(明2日へ続く)