ロッテオリオンズ 村田兆治 ニッポンハムソーセージカード | 秘宝館

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秘宝館-Orions 村田兆治

$秘宝館-村田兆治 ニッポンハム カード

ロッテオリオンズ 投手 村田兆治 背番号29。

村田 兆治(むらた ちょうじ、本名:村田 長次(読み同じ)、1949年11月27日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)・野球指導者・野球解説者。

現役時代はロッテオリオンズで活躍。そのダイナミックな投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれた。

1967年のドラフト1位で東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団。背番号はエースナンバー18を希望したが叶わず29。1年目の1968年は振るわなかった。当時は、ドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。そんなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。村田は、球界を代表するベテラン投手である小山が、若手である自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰っていった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭され、これに感激した村田は、以降練習に真剣に打ち込むようになったという。球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し6勝を挙げる。1970年にはリーグ優勝を経験。

翌1971年に投球フォームを大幅に改造し、いわゆる「マサカリ投法」を完成。同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。日本シリーズでは胴上げ投手となっている。1976年にはフォークボールをマスター。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、ことごとく打者のバットに空を切らせ、このシーズン、村田は21勝を挙げると同時に最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得。1981年には開幕11連勝を飾り、19勝で最多勝のタイトルも獲得し、鈴木啓示、山田久志、東尾修らと共に1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手となった。

しかし、1982年に肘を故障。様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行もおこなっていた。だが一向に症状が改善されないため、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀のもと、左腕の腱を右肘に移植する手術を受けるべく、渡米。以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰。翌1985年、開幕から11連勝を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。同年から、中6日で日曜日のみに登板する先発ローテーションを取るようになったため、「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。また、日本球界では長年、投手の肘にメスを入れることはタブーとされていたが、村田の復活によって有効な治療法として認識されることになった。

1989年5月13日の対日本ハム戦(山形県野球場)で200勝を達成。200勝に王手をかけていた4月16日の対近鉄戦(川崎球場)は延長11回を投げ切りながら敗戦投手になったが、その試合を日本テレビが試合終了まで中継し、本来「笑点」が放送される17:20 - 17:39の時間帯の視聴率はその日の夜の巨人-大洋戦を上回る22.4%(関東地区)を記録した(全体では10.9%)。
(Wiki)

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