今年もまた博多の長者原で櫛谷禅師の法話会がありました。書道塾を営む木村夏子さんが座禅会をされていて毎年禅師を呼んでくださるのです。

今年の法話も滲みましたなあ。

1) 驢馬の井戸を観る話。

2)突然この世に現れまたある日この世から消える。生死。厭うことなく受け入れなさい。

 

驢馬とは煩悩。井戸とは水、何もない。

驢馬が井戸を観るとロバが映っている。

同様に井戸からも驢馬を見ている。

何も煩悩のない井戸の水は煩悩満載の私たちを観る。

映り合う井戸と驢馬は別々ではない。

驢馬と井戸の水が別ものでないなら煩悩はないのである。

最近親戚の愚痴を聞いて疲れました。昔の愚痴。今ここにない物への怒り。本当はない物。それに対して疲れたのは私も煩悩満載だから。私とその人が一緒だから。私が井戸の水であれば良いことで本当は何もないのでした。

例えば家で暴れる父、モラハラ夫も驢馬。

発火して煩悩の塊。

だけどこっちが静かな水のような境地であれば影響されない。反応して怒ると同じ驢馬です。

現実には相手から離れないと水になるのは、まあ無理ですけど。

この頃、難物だった親やパートナーに感謝する様になりました。相手が驢馬であるほど自己が井戸になれば良い、何もない静かな水になれますから。

驢馬の夫や奥さんと暮らす人は静かな優しさをたたえた水の様な方が多いですね。

 

 

 

仏様に祈れば仏様も私たちを祈る。別物ではないから仏様に近づきます。

 

庭の植木の中にいました。

最も美しい蛾オオミズアオ。ぼろぼろですが生きています。去年に続きまた来てくれました。

 

ほんとうはこんな感じです。

成虫になって一週間くらいで死ぬのです。成虫は、口がないので飲まず食わず。ただ子孫を残すためにこの美しいと姿になるそうな。

 

こうやって生死を繰り返す姿を見ていると自然に命はこの世に生まれてどこかへ消えてまた現れて行くのだと受け入れられます。