チャンミンは、忙しい合間を縫って、シンガポールのチャンギ国際空港に降り立っていた。

美しく充実した施設で世界的にも評価が高い空港だが、忙しいチャンミンは早足で歩いていた。

ジェジュンに冷たくされ、すっかりポンコツになったユノのせいで、なかなか時間が取れなかったが、どうしても確認したい事があった為、無理してやってきたのだ。

 

ジェジュンを慰めに行ったユチョンが、ジェジュンにも時間が必要だと言うので、ホテル暮らしをさせている。

「ジェジュンが怒ってしまった」「ジェジュンに嫌われた」と落ち込むユノに「さっさと会いに行け」とケツを叩くが、いつまでもウジウジと煮え切らない。

まるで魂の抜け殻のように口を半開きしに、人の話も殆ど耳に入らないようだ。

だがユノ自身も「アルファの傲慢」に覚えがあったようで、全ての事を考え直したいと持っているようだ。

18歳からグループの為に身を粉にして働いてきたんだ、少しぐらい休み、一人でゆっくりと考え事をする時間があってもいいと思う。

 

空港を出ると、迎えの高級車がスッとチャンミンの前に止まった。

チャンミンはサングラスを外し、軽く挨拶をすると車に乗り込み、シンガポールの街に出て行った。

 

小一時間ほど走ると、小高い丘にある高級住宅地に入った。

なだらかな坂道に、洒落た大きな家が立ち並ぶ。

坂の上へ行くほど、その敷地は大きく豪華になり、その頂上近くにその豪邸はあった。

門が開くと車のまま中へ進み、ホテルのようなガラス張りの入り口が見えた。

 

迎えの執事について中へ入ると、心地よい風が通る石造りの廊下を抜け、池や植物に囲まれた渡り廊下を進むと、大きなプールが見えてきた。

プールを見渡す大型の温室のようなガセボに通され、深々とお辞儀をされた。

 

「お疲れ様でございました。こちらでお待ちください。お茶をご用意いたします」

「恐れ入ります」

 

まるで森の中にいるような静けさと緑の匂い、涼しい風が吹いて、炭風鈴が、キンキンコンと金属のような音を立てる。

こんなに広々とした空間なのに、聞こえるのは木々の葉擦れの音と鳥の声だけ。

まるで人の気配が感じられず、時が止まったようだ。

揺れる木漏れ日を眺め、ゆったりとした空間が、疲れたチャンミンの心を癒した。

 

ここは、ユノ兄の父、CYグループ会長チョンウンソクが住む家だ。

ウンソクは、18歳になったユノに全てを任せ、この静かな家で隠居生活を送っている。

とはいえ、多くの実業家や資産家との付き合いは続いており、経済界から完全に引いたわけではない。

ユノが嫌う、ゴルフやパーティーなどの接待などはこなしてくれている。

 

「お待たせいたしました」

 

声のする方を見ると、どこかで見たことがある美しい人がお茶を持って立っていた。

 

「あ、貴方は確か…」

「お久しぶりですね、チャンミン坊ちゃん」

 

そうだ、この人はユノ兄とユチョンの家庭教師。

まるで女性のように美しく、いつも優しかったイトゥク先生だ。

 

「イトゥク先生、こちらにいらしたんですか?何年ぶりかなぁ。会えて嬉しいです」

「ふふ…先生と呼ばれるのはいつぶりでしょう。僕も会えて嬉しいですよ」

 

聖母のような微笑みを称え、ゆっくりとお茶を淹れる仕草、丁寧に差し出すその細い指。

そうだ、先生は所作がとても美しい方だった。

いつも私達を優しく見守り、ケンカして泣いたユチョン(いつもユチョンが負ける)を慰めていたっけ。

 

「懐かしいですね。いつも僕たちは先生に喜んでもらいたくて。先生を取り合っていた気がします」

「そうだね。みんな可愛かった。僕はあの時が一番幸せだったよ」

「先生はいつもユチョンばかり可愛がっていて。少し妬いていたんですよ」

「それはいつも君が、お得意の毒舌でユチョンを泣かせたからでしょう?」

「そうでしたか?忘れました」

 

しばらく、懐かしい昔話に花を咲かせていると、後ろからポロシャツ姿の会長がやってきた。

白髪が増えたが、ラフな服装で、表情からもゆったりと暮らしていることが分かった。

 

「やぁチャンミン、久しいな。大きくなりやがって」

「会長、御無沙汰しております。お元気そうで、何よりです」

「あぁ、のんびりと暮らしているからな。ユノやユチョンは元気か?」

「えぇ(今はじいさんみたいだけど)。お二人とも相変わらず忙しくされています」

 

チャンミンは違和感を覚えた。

普通なら、従業員であるイトゥク先生は、会長が来た時点で、席を外すのが礼儀だ。

だがニコニコと笑ったまま、あろうことか会長の横に座ったのだ。

 

「会長もお茶を召し上がる?」

「あぁ、貰おうか」

 

どうぞと差し出されたお茶を、ありがとうと微笑む会長。

この感じ…そう、それは仲睦まじい夫婦のような空気感だったのだ。

 

えっ?えっ?

もしかして…そーゆー事なの?そーういう関係だったの?いつのまに?

 

「どうしたチャンミン、ハトが豆鉄砲食らったような顔をして」

「い、いえ…。こちらでは…お二人で暮らしていらっしゃるんですか?」

「そうだ。あぁ、お前は知らなかったのか」

「え?ユノ兄はご存じなのですか?」

「もちろんだ」

 

イトゥク先生は、ユノ兄が生まれる前からチョン家にいて、最初はベビーシッターだったと聞いた。

その後ユチョンも生まれ、そのまま家庭教師になり、仕事で忙しいムンスミンに代わり、母親のようにあれこれと世話を焼いてくれた人だった。

私もユノ兄たちも、先生に懐き、甘え、一緒にたくさん遊んでもらった。

先生がいたから、子供時代が楽しい思い出で溢れていたんだ。

 

「では…その…会長が隠居を申し出たのは…」

「イトゥクとゆっくり暮らしたかったからだ。あの頃イトゥクの体の調子が良くなくてな。こちらに来て随分元気になってくれたんだ」

 

イトゥク先生との関係を隠そうともしない会長、隣で穏やかに微笑む先生。

あれ?どーゆーこと?二人の関係はいったいいつから?何でユノ兄は私に何も言わなかった?

 

「あの…ぶしつけな質問ですが…。お二人はいつから…?」

 

チャンミンは失礼と思いながら聞かずにはいられなかった。

何故なら、それこそがチャンミンがわざわざシンガポールにまで来て聞きたかった事だから。

会長は隣に座ったイトゥクを、愛おしそうに見つめながら言った。

 

「いつから…?ふふ…お前が生まれるずっと前からだよ」

 

「え?では…もしかして…」

 

「そうだ。私達は運命の番。そしてユノは…私とイトゥクの間に産まれた子供だ」

 

衝撃の事実に体が震える。

イトゥクが、少し辛そうな顔をしている。

 

「ユノは?…では、ユチョンは?ユチョンは違うのですか?」

 

俯いたイトゥクを、会長が優しく抱き寄せ、ゆっくりと立ち上がらせた。

幾つか言葉をかけ、優しく抱きしめると、控えていたメイドに連れられ、イトゥクは部屋に戻った。

チャンミンは、聞いていけない事だったのかもしれないと、唇を噛んだ。

 

「会長、申し訳ありません。私は言葉を選ぶこともせず…」

「構わん。お前は、それが聞きたくてここまで来たんだろう?」

 

風がプールの水に幾重もの水紋を作っている。

チャンミンは会長の言葉を待った。

 

「お前は子供の時から、チョン家の為に尽くしてくれた。これからも、ユノやユチョンの事を頼みたい。その為に、あの時あった出来事を全てお前に話そうと思う」

 

チャンミンは、神妙な顔をして頷いた。

 

「イトゥクと初めて会ったのは、彼が従業員として家に働きに来た時だ」

 

当時25歳だったイトゥクは、チョン家の家政婦として働きに来ていた。

その頃のチョン家には、男性の従業員しかおらず、家政婦の仕事も全て男性のオメガがやっていた。

オメガ雇用促進の一環で、チョン家はたくさんのオメガを雇っていた。

 

「初めて見た時、すぐに分かった。彼は私にとって特別な存在だと。たおやかに佇むその姿は、まるで白百合がひっそり咲いているように、可憐で美しかった」

 

運命の番とは、互いに惹かれ合うモノ。

イトゥクも、ウンソクと同じ気持ちだったようで、二人はすぐに親密になった。

 

「イトゥクと身も心も通じ合わせたが、その時にはもう私には結婚相手がいた。家同士で決められた婚姻だったが、私にそれを拒否する力はなかった」

 

全羅道の富豪の娘だったスミンは、幼いころからチョン家の家に嫁ぐ事だけを願っていた娘だった。

庶民ではないスミンだから、結婚はするが「妾」を迎える事に異存はないはずだと思っていた。

 

「イトゥクは賢い人だ。私とは番を結ばない方がいいと申し出てくれた。だから私は何とかスミンを愛そうとした。だが…愛せなかった。あの人の冷たさ、傲慢さに、どんどん心は離れ、反対にイトゥクにのめり込むようになった」

 

運命の番を無視する事など、誰にもできない。

スミンの目を盗みイトゥクと逢瀬を重ね、愛し合い、ウンソクはついにスミンに告白した。

自分はイトゥクとは離れられない、だからイトゥクを妾にしたいと。

 

「スミンは理解してくれた。チョン家の子供を作る事は、スミンにとっても重要な事だから。たとえ妾が産んだ子供でもスミンの子供になるし、跡継ぎを産んだ妻になれば、スミンの立場は揺るがなくなる。イトゥクが妾になれば、私も彼を大切に出来るし、私の妾であるイトゥクはチョン家からも守られるからだ」

 

「そうやってみんなが幸せになると信じて疑わなかった。だがスミンの思いは違っていた。全ては私の見通しが甘かったのだ…」

 

 

 

 

得意の毒舌でユチョンを泣かせていたチャミ

 

 

 

 

※※※

やはりスミンはユノの実母ではありませんでした。

美しく優しいイトゥクとユノパパは運命の番。

スミンの鬼の所業が明るみになります。

次回、チャンミンも知らなかったユノ達兄弟の過去が。

少年ユノが切ないです。