初夏に振る雪 | Second Brew

初夏に振る雪

寝坊をした,。


職場に少し遅れると連絡を入れる。



何時ものように音楽を流しながら少し遅めの電車に揺られていた。


流石にこの時間は乗客が少ない。


迷惑にはなるまいと少しボリュームを上げた。



しばらくすると曲の合間合間に話し声が聞こえた。


『何だろう?』少し気になり横に視線をずらすと白髪の老婆がいた。


年の頃合は90歳前後だろうか。

老婆は一人で電車に乗っていた。


回りにいる人は聞こえない振り。

それでも老婆は誰かに話掛けている。 少し胸が締め付けられた。



ボケてしまっているのだろうか。


しかしその目にははっきり何かが映っているのだろう。


嬉しそうに老婆は語りかける。

切なくなった。哀れむとかそう言う類ではなく、ただ自分の祖母と重なった。


席をずらし老婆の横に腰を掛けた。

何故かその話を聞いていたくなった。

横に座った俺に気づいていない。

気づいていないと言うよりは、視界に入っていない感じだった。


老婆が話し出す。


『青森は本当に良い所でね、ボタン雪がそれはそれは綺麗なの』


そんな件で始まった。



青森は故郷なのだろうか、東京へは嫁いできたのだろうか。

『ほら見て、綺麗でしょう、もう少し寒くなれば一面真っ白になるのよ』

呼びかけている相手はわからない。

既に亡くなってしまっているかもしれない旦那さんになのだろうか。


俺は黙って頷いていた。

頷く事しか出来なかった。


ふとその景色を見たくなった。

少しでも老婆の言う風景を感じたかった。

語り部の旋律に耳を傾け静かに目を閉じる。


川端康成の『雪国』を思わせる情景が浮かぶ。


深々と降り積もるボタン雪。

山も緑から白へと色が変わっていて田畑や民家も雪で包まれ、その間を鉄道が走っていた。

静かに汽笛を鳴らしながら。



懐かしい。ふとそんな言葉が浮かんだ。

自分の人生でその様な風景は見たことが無い。

それでも懐かしいと感じた。

涙が溢れてきた。


たまたま電車の中であった老婆の話に涙が止まらなくなった。



会社への最寄駅に到着し、鈍い音をたてドアが開く。



外は燦々と照りつける太陽、初夏を感じさせる暑さ。

空は晴れ渡り、雲ひとつ無い青そのもの、揺られていた20分間と言う短い時間。

そこには確かに雪が降っていた。


願わくば一日でも長く、老婆の目に映るその美しい景色が消える事の無い様。

ただただ祈るばかりである。