誰かが亡くなると…

いろいろ思うんだょね。。

ちょっと頭の中を整理したい為だけに書きます。

私の母は 56歳で亡くなりました。

最後は 脳梗塞の連発で

よく分かってなかったと思う。

口が開かなくなって 食べるのも

少なくなってなくなりました。

膵臓癌でした。

膵臓癌になって 抗がん剤治療をしながら

アパートの管理人ノ仕事をしてました。

脳梗塞になって 仕事を辞めました。

それからは最期まで在宅でした。

母は何も言わなかった。

遺言らしきものもなかった。

脳梗塞になって変わり果てたので

実感がなく そもそも母と そこまで

話をする方ではなかったので

非現実的だった。

母が亡くなって父や兄が落ち込まないように!

特に母っ子だった兄。

それが心配で 私は私の子供達の事で

いっぱいいっぱいだった。

周りは泣くんだけど どこか

私は冷静だった。

蚊帳の外って感じかな。。

そもそも長生きしたくない。と

言ってたから 良かったのかな〜と思ったり。

父が早期退職して 抱き合って寝てる所を

見ては 嬉し泣きをしてました。

決して仲が良かった訳ではなかった両親。

父を頼った母は 可愛かった。

葬儀も お祭りのようだった。

その後 父は とても寂しくなって

1人カラオケに行ったりしてたと聞いた時は

とても寂しかったんだな〜と思った。

そして父。

父の時は 父の要望に沿うように

いつも緊張していたと思う。

長男が最期は看取るという昔のしきたりに

兄も働いてない事もあって、

あれを持ってきて、これを買ってきて!の要望が

辛いと言ってたので、私がする事になった。

ホスピスは3ヶ月で1度出ないといけないルールが

あったが、病室に空きがあったので

病院側は 退院しなくても大丈夫だと

言ってくれたけど

父は1度退院したかったみたい。

そこで父と兄が衝突!

うつ病を持つ兄は とても嫌がった。

ホスピスは有料と無料の部屋があったのだけど

突発的な入院は有料の部屋になる事が多かった。

その時は 早く 無料の部屋にしてくれと

病院の先生に言っていた。

3ヶ月ルールで1度退院するつもりだった父に

それなら俺は家を出る。と喧嘩になった父と兄。

父から電話があり すぐ兄と話をしに行ったけど

退院はさせない。違う病院を探す。の一点張りだった。

私が泊まり込むから!と言っても兄は考えを

変えなかった。

癇癪をすぐ起こす父を兄は受け入れられなかったのかも

しれない。

次の日 父に会って話をしたけど

父は 退院するの一点張り。

次の日 病院に行くと、、、

顔は ヤル気を失い 死期が近い。私は

そう感じて 「家に帰ろうか?」と言ったら

「いや、ここがいい。」そう父は言った。

それからは みるみる悪くなり

モルヒネの量もどんどん増えた。

意識がないか痛みで唸る日々。

Dr.に「もう終わりにしたい」父は自分で

そう言った。

モルヒネの量を上げる時は 家族立ち合いの元

だったので兄を呼んで 

父に「ありがとう」と私は言って、

兄は「ちゃんと出来て(働いて自立してなくて)

なくてごめん」と

謝った。「いやいや俺もちゃんとなんてしてない」と

父は言った。

それからは怒涛の日々。

父の父(私からしたら祖父)は、

母が亡くなる前の年に亡くなった。

父は働いてた為 死に目には会えてない。

祖父が亡くなる時も なかなか会いに来ず

口だけ出す 叔母は薄情だな。と

その時 愚痴ってるのを聞いて思ってたんだ。

でも 残されたものの人生は続きがある。

生活がある。

薄情だなと思った叔母は1人身だから

仕事を今も頑張ってる。

母方の祖父母も老老介護。

母が亡くなって、長男が帰ってきたは

いいけど、仕事で忙しいみたい。

親の事を看るのが 当然と思ってたけど

今 自分の状況や周りの状況を見ると

そうではないのかもな。。と思う。

自分の人生で皆いっぱいいっぱいだもんね。。

自分の人生満足いくように

生きていればいいんだょね。。

20代に母、30代に父を亡くしたから

人生の大イベントが ダッシュで

通り過ぎてしまった。

自分の感情を感じる暇もなく。。

さて。ゆっくり歩いていきますかね。

私は どう生きていけるだろうか。

鬱の波とつきあいながら 

また社会復帰出来るだろうか?

鬱になった人で寛解した人は生き方を変えたって

いうけど

どう変えて生きて行ったらいいのか。。

しゃかりきは もう頑張れない。

急性期は死ぬ程辛かったから。。

前を向けたり 下を向いたり 鬱の渦に

ぬまっちゃったりしながら

今 私は生きている。