父の日
実家の92歳の父とハムミンの2人で食事にカラオケ🎤

実家は片道車で2時間半くらいの場所

今年は4回目の帰省 2人きりで会うのは今年初

年齢不相応?に元気?な父

とはいえ 高齢な父と会える時にはできるだけ会ってささやかな時を持っていたいな🐹

そして

この度は父に渡しっぱなしだったDVDを持って帰って来た



もはや今となってはほぼ20年前のものだ


子育て期は無我夢中で

当時撮ったはずの諸々の動画もかなり不明になっていて

還暦プラス1ハムミン

断捨離もかねながら昔々の映像などなどもぼちぼち探している


桐朋にいたのは次女が小4の6月の公開実技試験出演までだった

(最後の演奏はモーツァルトソナタとシンフォニア15番だった)


とある先生に気に入られ

是非本部である仙川へと手紙や電話で当時猛プッシュを受け

迷いながらも結局出した音楽教室だった


小学校に上がる前後だっただろうか?


桐朋に行く前は次女は3歳からバイオリン🎻を始め

初めての発表会はきらきら星⭐️だった


舞台袖まで付き添ったハムミン


舞台で挨拶をして拍手を受けながら

はたと次女が肩当てをしていないのに気づき💦

慌てて先生に肩当てをつけに来てもらったのがいまだに忘れられない


そして5歳の発表会で弾いた無窮動という曲


テンポ良く弾く次女に会場からブラボーが🫢


バイオリン歴2年のちびっ子にまさかリアルブラボーが来るとは本当に驚き


これはこれでまたまた一生忘れられない出来事だった


(楽しげに弾いていたかな 今思えば)


バイオリンの先生には


バイオリンは早熟な楽器だから


今から本格的にやらないとと💦


3歳になったばかりの本当にいたいけない次女はレッスンにては3歳のお子様扱いを全くしてもらえなかった


傍らで見ていて


正直なところ 可哀想だな


そう思うこともあった


立ちっぱなしで 正しくバイオリンを構え 正しく弓を持ち 良いフォームを目指す


音程や曲をどう弾くか それ以前にただ立っているだけで大変だったと思う


座ろうとすると先生からダメだと言われ


忍耐のいるレッスンだった


学生音コン(小学生)


そんなことを先生はイメージしていたようだった


甘やかしてほどほど乗せてなんとか維持するというお子様むけのレッスンではなかった


ピアノもぼちぼち弾き始め


桐朋の先生からは

ぼちぼち楽器をどちらかをメインにした方がいいと言われ


結局は次女自らがピアノを選んだ


後にピアノに決めた理由は


ピアノは座っていられる


ということだった💦


たしかに、、3歳からの先生は座らせてくれなかったしなあ、、



結局次女は行くところ行くところで


母子共に望むものでなかった極端に高い期待を先生方から何故か常にかけられる羽目になっていた


当初のハムミンの思惑は バイオリンは大学生になったらサークルでオケにでも入って弾けたらいいなという程度で始めたのだった

音楽を専門にすることは当初全く想定していなかった

ただ 耳を育てるという意味で 3歳から出したレッスンだった


浜離宮朝日ホール演奏会🎵



1番は小2ハイドンソナタ



2番が小3次女のギロックソナチネ全楽章



3番は小3バイオリン サンサーンスバイオリンコンチェルト第3番1楽章

当時ハムミンが聞いていたのは

たしか日本で最初のバイオリン工房のご子孫のお子さんだったかと

ソルフェージュのクラスなどで一緒になったりもしていたっけ



4番からはしばらくチェロなどが続く、、


よそ様の演奏はやはり載せられないので1分動画となりましたm(__)m

ゆくゆく削除しようと思っておりますm(__)m


音楽教室に毎週出かける中

夫は仲道郁代さんを見かけたそうで

なんだかすごく嬉しそうに話していたのも今となっては懐かしい


ところで

改めて当時の出演者の皆さん

漏れなく音楽の現場で現在ご活躍されていて


結局のところ

浜離宮や公開実技試験に選ばれるということは

ある意味漏れなく学生音コンなどなどに始まり

果ては例えばピアノなら五十嵐薫子さんですけど

ショパコンで健闘されたり


漏れなく海外留学


そんなこんなの中


小4で音楽から次女を撤退させてしまった過去が、、


詳細な理由はあまり記事に書けないけど


いずれにせよ


それがずっとハムミンの中でトラウマになっていた


本当は家族で1番面白い音楽をしたのは次女で

先生方からの期待はある意味もっともな話でもあり


ブログ4周年ハムミンだが あまり積極的にピアノブログを選ばなかったのはこのトラウマを引きずっていたからでもあった


どんだけ引きずってるんだ!


そう思いつつ やっぱり 次女を音楽から引き離したことをいつまでも潜在的には悔やむ気持ちもあった


ブログにてピアノをメインにはあまり書かず


むしろ ハムミンさん 貴女は真面目にピアノやる気あるの?


それくらいに当初を知るブロガーの方々には思われていたと思う


でも ブログの中で少しずつ少しずつ

ハムミンは変わり

気持ちの整理がついて来たというか


家族 子育て軸から 完全に自分軸になったのかもしれない


家族の問題でなく


もはやハムミンがどう生きたいの?


そもそも 本来 この家を建てた当初のハムミンの願望は


ともかく 窓から自然を見つめ


ただ時間や人様を気にせず 好きなピアノや歌をやって行きたかっただけだったのだ


子育てに入り

あれよあれよと

そんな自分ファーストは消え


先生方に勧められるままに 方向の軸が変わってしまった


時は流れ今に至り


4周年ハムミンはピアノの方々と積極的に関わろうとなりつつあり


過去を乗り越えつつあると思う


ひとつはっきり過去について言えるのは


音楽で上り詰めようというのは


一歩間違えれば


家族崩壊になりかねない

場合によっては危ない橋を渡るような


少なくともハムミンの家庭においてはそうだったのだ


重箱の隅をつつくような厳しいレッスン


のだめさながら  本当にレッスンは厳しかった


先生に次女が怒られる時には

これってハムミンのせいだと胸を痛めた本番前


心が本当にこのまま音楽に寄り添って行けるのか

機械じゃない

鋼の心は無理だった


恵まれた環境も整ってはいない



当時夫と散々いろいろあった


ピアノを先に始めた長女もいる


家族皆んながなんとか良いバランスで維持して行くためには


もう桐朋にはいられない


そう思い ある時突然 桐朋から逃げた

音楽から次女を放した


当時桐朋には仲良しのママ友達が何人もいた


その中でひと家族浜離宮出演の際は楽屋まで来てくれたママ友が


家族ぐるみで仲良くしていた


なのに 突然 ハムミンは黙って去った


事務局からは慰留の電話

ママ友達何人かからも心配の電話が


でも結局はハムミンは理由も告げず

離れてしまい、、


(今思えば もっとましな去り方があっただろうに)


その何年かあと


まさかの事件をテレビにて知ることになった


中央大学教授刺殺事件


1番仲良くさせていただき 楽屋にも来てくれた彼女のご主人様が亡くなられた事件だった、、


家族ぐるみのお付き合いだった


優しいご主人様だった


ワイドショーでも詳細は流れ始め


ハムミン家族はそれはそれは驚き


ほどなくして告別式のハガキも届いた



ハムミンは



告別式に行かなかった



返信もなんの言葉もかけられず



ただ頑なに 次女を音楽から放し



家庭で過去の音楽の話題は誰からも出なくなった



封印していたのだった



不義理というかなんと言いましょうか



そうすることしかできなかったハムミンがいた



だから

ブログにて

ピアノ関係の数少ないブロ友さんから

ショパコンの話

五十嵐薫子さんや片田愛理さんの話が出た時には

むしろ驚いた



かつて桐朋でご一緒していたから



忘れた頃に

ブログ関係の方々からの話に出て来て、、



当時封印していたから ビデオもDVDも観なかった

昔の仲間の行く末をググることもなく


長女は私立音大のピアノ科に行ったけれど


実はハムミンは長女が大きくなってからは長女の演奏会にいくらも足を運んでいず



音楽を閉ざしたハムミンの心は

行き場を失い彷徨っていた



離婚しようと思った時もあった



そんな時



東日本大震災が起き



ハムミンは被災地へ行くことになった



被災地での経験はいろいろあるけれど



その中で



被災地の音大の演奏会に足を運んだこともある



被災したかの地 それこそ演奏のホールも壊滅的被害を受ける中



それでもなおかの地で奏でられるピアノとはいかなるものなのだろう



生死の狭間を生き抜き

奏でられる音楽とは



市民合唱にも誘われ 聴きに行った



自宅や店舗 様々なものを失い



そんな中から どんな歌が生まれるのか



誘われて



ハムミンも一緒に(ふるさと)を歌った



被災地の被害のあった老舗の楽器店でピアノを借りて弾いた



地元老舗楽器店のお子さんは芸大を卒業されていらっしゃると話に聞いた



今は過去を乗り越え



自分の塾の仕事や娘たちの音楽がメインであった時期は遠く去り



遅ればせながらハムミンが今ピアノを習っている



トータルでハムミン自身が自分のためにピアノのレッスンを受けて来た期間は子ども時代を含め10年くらいだと思う



今 娘たちは娘たち各自の人生が



今 ハムミンにはハムミンの人生が回っている



昔 娘たちのピアノレッスンからギロックを知った

ギロックにハムミン自身がかなりハマっていた時期があったり(子どものためのアルバムや叙情小曲集)

娘たちが新しい教本や曲に入るごと

ハムミンも通って来た曲の数々でもあり

懐かしく また成長や上達への喜びを噛み締めながら その都度何度も何度も娘たちのピアノ曲を弾いていたっけ


いろんな時がある


生きている限り

変わり続けるものと変わらないもの



父の日に

持ち帰って来たDVD



夫と早速観た

夫も大変懐かしそうに観ていた


そしてブログにて


本日公開させてもらい



過去を乗り越え 今を歩む



そんなハムミンを感じるのでした



不義理の過去



凄惨な事件に遭われたママ友一家



仲良しなら真っ先に駆けつけるはずだった



ママ友はどこか岡村孝子さんに似ているような気がして



カラオケで岡村孝子さんの本人映像を見ながら



密かに偲んでいた日々も



(夢をあきらめないで)を歌いながら



ある意味夢からあきらめて逃げたも同然と思いながら、、歌った、、



彼女はその後

なんと偶然にも次女が行くはずだった私立大学の教授になっていた


次女が私立大学にそのまま行っていたなら


もしかしたらキャンパスですれ違っていたかもしれない、、



絶望の淵から

前を向いて生きることも出来る



人は

生きる力を持っている



被災地からも



生きているだけで

丸もうけ



生きてさえいれば



そんな言葉が

聞こえて来た



トラウマを乗り越えつつある



だからこそ ピアノに今向き合える



次女はその後国立大へ



そして社会人に



家族には誰もがそれぞれに歴史があり



人知れず誰しも涙し 絶望的な気持ちになる時があると思う


あ そんなことにもしも出会わなければ

もちろんそれはそれで

いわゆる順風満帆な人生

それはそれで何より



それにしても

そう

古き友達へ



あの時はごめんなさい



そう言える時は来るのだろうか、、



あの時はごめんなさいという言葉



実は先日の朝ドラにてたまたま出て来て



胸が締め付けられる思いで観た



最近朝ドラからかなり影響を受けては考えさせられる昨今のハムミンでした🐹



追記、、日曜に9度7分の発熱で月曜にコロナと診断を受け

本日やっと発症から5日経過します(2回目かかりました💧)


まだ味覚が変です


味覚が変でも もともと料理は味見もあまりしなかったので

恐らくですが出来栄えの味にはそんなには差し障りはないかと密かに思うのです、、


ただ 味がわからないというのは

食の楽しみを奪われているということで


なんとか早く回復しないかしら?


そう願っているハムミンでした🐹



この記事は いずれ限定記事にしたり

いずれ一部を削除することになるかと思いつつ


今日は書きたい気持ちになりました


お立ち寄りいただき

ありがとうございましたm(__)m