「あれ~? しょーじんせんぱ~い!」
「ん……?」
 やたらと浮かれた声に呼ばれ、彗はそちらの方に首を向けた。
「お~い!」
 と、(元)保健室前で秋乃が手を振っている。
 彗の前では比較的赤面顔が多い秋乃だが、今回の赤面はどことなくいつもと違う気がした。
「こんな時間に、こんな場所で何してるんですかぁ?」
 近づいてきた彗に、妙ににやけた顔で秋乃はそう尋ねる。
 だが。
「そのセリフ、そっくりそのまま返したいんだが……」
 本来ならば秋乃はバリバリ部活中のはずの時間である。
 至極当然の疑問だった。
「朱麗さんに相談に乗ってもらってたんですよぉ」
 秋乃が「ね?」と隣の朱麗に振ると、朱麗は「うむ」と頷いた。
 こちらの顔もほのかに紅い。
「ここを利用しちまったのか……」
「失礼だな。まるで利用してはいけないところのようではないか」
「いや明らかに利用しちゃいけないだろ。現に井上がどことなくおかしい……」
「ね~、しょーじんせんぱい~……しのかみせんぱいはどこにいるんですか~?」
 朱麗と話している横から、秋乃がクイクイと彗の袖を引きながら尋ねる。
「あん? いや、俺は今日ちょい山白さんに捕まって物理準備室の整理手伝わされてたから。あいつは先に帰ったよ」
「嘘だ~、本当はどっかに隠してるんでしょ~?」
 ケタケタと笑いながら、秋乃は彗の袖をブンブンと振る。
「隠すってなんだ……本当にいねぇよ」
「本当ですか~?」
 覗き込むように秋乃は尋ねる。
 顔同士の距離は非常に近い。普段の秋乃ならば不可能な領域だ。
「あぁ」
 別段そんなことは気にする様子もなく、彗は頷く。
「んふふ~」
 彗の返答に、秋乃はニヤリと笑い。
「じゃあ、しょーじんせんぱい独り占め!」
「いでっ!」
 勢いよく彗の首筋に抱きついた。
 彗が尻餅をつくだけで終わったのは一重に秋乃がフラフラしていたからであり、もししっかり踏み込まれていたら今頃彗の後頭部は地面と熱烈なキスを交わしていたことであろう。
「しょーじんせんぱ~い」
 抱きついた体勢のまま、秋乃はぎゅっと密着を深めた。
 そこに多分のアルコールの匂いを感じ、なんとなく察しはつきながらも一応。
「……なにこれ」
 秋乃の背中を指しながら朱麗に尋ねる。
「ははは、少し飲ませすぎてしまったようだね」
 特に悪びれもせず朱麗は笑う。
「いや、校内でこれはさすがにまずいだろ……」
「問題ないさ、なにせここは神無砂希学園だ」
「む……」
 そう言われてしまうと、若干納得してしまうのもまた事実である。
「てか、責任持ってこれどうにかしろよ」
 しなだれかかってくる秋乃を支える彗を、朱麗はおかしそうに眺めた。
「それは無理な話だ。なにせ私も酔っ払いだからな。酔っ払いは早く帰って寝るに限る」
「あ、おい……」
 彗が引き止める間もなく、朱麗はドアの札を『CLOSED』に変え中に入っていった。
 尋常ではない素早さである。
「てかそこに住んでるのかよ!」
 彗のツッコミが廊下にむなしく響いた。
「……う~む」
 「ふぇ~」などと言っている秋乃の体重を支えながら彗は考える。
 どう考えても完膚なきまでに誤解されそうな光景だ。
 とにかくこれをどにかすることが先決だろう、と判断。
 彗は秋乃に呼びかけてみる。
「お~い、井上~? とりあえず立ってみようか」
 できるだけわかりやすいようにゆっくりと、聞こえやすいように少し大きな声で。
「ん~?」
 と少し秋乃は首をかしげ。
「やです~」
 と、ますます強く彗の首に抱きついた。
「……おいおい、勘弁してくれ」
 おもわず彗は天井を仰ぐ。
 とりあえずこのまま強引にでも運んでしまおうか、と考えていると。
「あぁ、そうだ」
 とてもいいことを思いついたように秋乃の顔が輝いた。
 もっとも、ちょうど自分の顔の横にあるため彗からその表情は見えないが。
「あの~、え~と、ですね~……」
 なんとなく言いづらそうにしている秋乃。
「うん?」
 それを、うながしてみる。
 それに、秋乃は意を決したような表情に(やはり彗からはその表情は見えないが)。
「あの!」
 勢いよく、言い始め。
 しかし勢いがよかったのはそこまで。
「愛してる、って言ってくれたら立ちますよ」
 最後の方は、消え入るように小さかった。
「……はい?」
 すぐ耳元で聞いていた彗には十分聞こえる程度の声ではあったが。
 おもわず彗は耳を疑った。
 耳まで真っ赤になった秋乃の顔が彗から見えなかったのは幸いと言うべきか。
「あ~……」
 とりあえず彗は秋乃の言葉の意味を考えてみる。
 実に様々な仮説が脳内で飛び交い、証明する術がないために消えていく。
 いくつかは残り、それをさらに吟味し。
 そして。
 その結論に思い至った彗を、褒めるべきなのかどうか。
 彗は、偉大なる先人の教えを思い出してしまっていたのである。
「酔っ払いに常識は通じない、か……」
 はぁ……とため息を吐き。
 さすがに少し恥ずかしげな表情で。
「愛してるよ」
 そう、小さく呟いてみた。
「む~?」
 それに、秋乃はガバッと身を起こす。
 体は彗の上に乗ったままだが。
 不満げな表情を彗の目の前に持ってくる。
「心がこもっていません。もーいっかいお願いします」
「心ってお前……」
「もーいっかいお願いします!」
 有無を言わさぬもう一押し。
 彗は、「しょーがないな」といった風な苦笑いを浮かべた。
 それは、なにかの偶然だったのかもしれない。
 彗としては、酔っ払いに対するある種の寛大な心か、あるいは手のかかる妹を見るくらいの気持ちだったのかもしれない。
 ただ、秋乃の目に。
 それは、この上ない微笑として映った。
「愛してるよ、井上」
 そして、そのセリフ。
「ありがとうございます、昇神先輩」
 にへ~、と秋乃は笑った。
 そしてたちまちのうちに、秋乃は全身の血液が頭に上ったかのような錯覚に陥る。
 ただでさえアルコールで頭に血が上っていた上に、さらに。
 当然のごとくというかなんというか。
 秋乃は目を回してこてんと倒れた。
「おわ、井上!? おい、井上!?」
 残された彗は大騒ぎである。


「ん……?」
 妙に心地よい思いの中、秋乃は目を覚ました。
 上下にわずかに揺れている感覚。
「ん? 目ぇ覚めたか?」
 すぐ近くで声が聞こえる。
 聞き間違えるはずのない声。
「ん~……おはようございます、昇神先輩」
「あぁ、おはよう」
 とりあえず挨拶してみると、声はそう返してくれた。
 先ほども感じた通り、声は随分と近くから聞こえる。
 そこで、ようやく秋乃は自分の目の前に彗の頭があることに気付いた。
 加えて、自分は歩いていないにも関わらず進んでいく景色。
 上下に揺れる感覚と合わせ、自分が彗に背負われているのだわかる程度には秋乃の脳は働いていた。
 そして、秋乃の脳に瞬時に理解したのである。
 あぁなるほど、これは夢なのだと。
「いい夢ですね、これは……」
「そうか、それはよかったな」
 現実において、苦笑い気味の彗の声がこんなに近くで返ってくるはずはないのだから。
 これは間違いなく夢であるという確信を深める。
 そして、夢ならば何を言っても自由である。
 きっと、返ってくる答えも自分の望むものなはず。
「好きですよ、昇神先輩」
 だから、そんなことを口走ってみた。
 夢だとわかっていても、多少の緊張が走る。
 けど。
「はいはい、俺も好きだよ」
 ほらやっぱり。
 自分の夢なのだから、そう返ってくるのは当たり前なのである。
 満足げに微笑み、秋乃は再びまどろみに身を任せた。





「おぅ。おはよう、姉ちゃん」
「ん~? おはよぅ……」
 弟の声に、秋乃は眠そうに挨拶を返す。
「その齢で二日酔いかよ……姉ちゃん、本当に大丈夫か?」
「二日酔い~? ん……ん~? ていうか私、昨日いつ家に帰ったんだっけ……?」
「おいおい、覚えてねぇのかよ……姉ちゃん、ベロベロに酔っ払って運ばれてきたんだぜ?」
「誰に~?」
「昇神彗、って言ってたかな? なぁ姉ちゃん、あれが俺の将来のお義兄さんなのか?」
「ん~? そうだったらいいね~」
 ニヤリと笑った弟に、秋乃はふわ……とあくびを返す。
 まだ頭は働いていないようだ。
 そんな起動中の頭で、昨日の出来事を思い出そうとしてみる。
「ん~……?」
 (元)保健室に朱麗に引き込まれたところあたりまでは鮮明に覚えているのだが。
 相談の途中あたりで記憶が曖昧になり、そこから先はほとんど記憶には残っていない。
 なんとなく、とても幸せだったような記憶はあるのだが。
「昇神先輩……」
 先ほど弟が出したワードである。
(昇神先輩が……なんだっけ?)
 そこまで思ったところで、フラッシュバック。
『愛してるよ、井上』
 微笑みと共に紡がれたセリフ。
 夢でさえ見たことはない場面なはずなのに、伴った強烈な現実感。
 さらに。
『俺も好きだよ』
 間近で囁かれたかのように耳に残っているセリフ。
 たちまちのうちに頭に血が上り。
 ぶばっ。
「うわっ、なんだいきなり!? 母さ~ん!? 姉ちゃんがいきなり盛大に鼻血噴出した!」
「鼻にティッシュつめてうつ伏せに寝かしときなさ~い!」
 そんな、にぎやかな井上家の朝の風景だった。