1991年3月に娘の春休みに乗じて
嫁と娘のフィリピン帰省という名目の
”凱旋帰国”を果たします・・・
翌日の嫁実家Medellin行きを急に云われたが
皆へは如何の様に伝えていたのだろうか・・・!?
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こんばんはHamreyです
ワイの知らない間に相談して決定していたが
ワイへの報告は無かったダケと思っていた・・・
だが美魔女さんのコメントにあった様に
”テレパシー”の様な機能がP民には
搭載されていて”秘密裡”に通信をしている・・・
そう云えばネットが無い頃でも噂話の類と云え
途轍もなく早く伝わっていたので
真実味の有る事だった・・・
だが嫁は『借家記(第一章)16』に行った
嫁姉Etの近くのお宅で話したと云うが
ワイは”蚊帳の外”との認識だった・・・
後にジプニーの売り出しとの事は聞いたが
Medellin行の話しは聞いていない・・・
「そのくらい判りなさいヨ!」と嫁は云うが
”それくらい説明しなさいヨ!”と
ワイは云いたい・・・
(云えなかったが…)
翌日は早朝3時半に起こされた・・・
眠い目をこすりながらトイレを済ませてから
(-。-)y-゜゜゜しようとテラスに出ると
殆どの者は起きて準備万端だった・・・
(レンタルのジプニーも来ていた…)
時間にルーズと云われるP民だが
見直なければと思ったが
実は一晩中起きていた事が判明する・・・
(寝なければ寝坊は無いダカラ~…)
更にその中には嫁姉Wも居たが
やはり”テレパシー”での連絡だったのだろうか・・・!?
寝ぼけマナコのM子を抱きかかえて
ジプニーに乗り込み4時丁度に出発するが
タンバイDn達は途中で降ろす・・・
その後は未だ暗い北国道をひたすら進むが
当時は街灯もまばらでヘッドライトだけが頼りだった・・・
明るくなりだしたのは
山越えに入った頃であった・・・
ワイは助手席でビデオ撮影をするつもりでいたが
当時の山越えコースは殆ど凸凹道・・・
撮影は諦めました・・・
一方後部席はと云うと
全員”爆睡中”・・・
(そりゃそうでしょう…)
あっ嫁姉Wダケは起きていたが
一人で何かをモグモグしていた・・・
ネットで拾ったイラスト
前夜の残り物を持ってきていたのだろう・・・
By the way
何人の親族で実家Medellinへ向かうのだろうか・・・
先ずはW(次女)とEt(三女)にその娘H…
そしてRs(五女)と娘Miに息子Dl…
Li(六女)とU(七女)…
(Liの婿Riに息子Jmは不参加…)
Am(八女)と娘Rjに婿とその弟Vt…
ワイと嫁に娘M子…
更にEtの婿Mnにその弟Nlまで居て
大人12人と子供2人に幼児3人
合計17人となる・・・
エクステンションと云う木製の腰掛を使えば
20人くらいは乗れると云うジプニーだが
窮屈で身動きは取れなくなる・・・
ネットで拾った画像
こんな立派なモノではないし
”ケロリン”とは書いていない…
それでも幼児は母親が抱っこしているので
何とか乗って居られるが山間部での
揺れには耐えられるであろうか・・・!?
あっM子はワイの隣で絶賛爆睡中・・・
山間部も抜けてMedellinへ近付きだしたら
運転席後ろのEtが起きてきて
ドライバーと話し始めていた・・・
この先の道程を指示するのであろう・・・
(当時の道路標識は無いに等しいダカラ~…)
程なくしてMedellinへ着き
先ずはマーケットで買い物を済ませる・・・
ワイは嫁にオカニだけ渡して
車外で体を伸ばすのと(-。-)y-゜゜゜をして待つ・・・
ネットで拾ったイラスト
その頃にはM子も起きてきて
朝の生理現象を訴える・・・
これに付いては如何したらいいのか判らないので
発展途上のP~ナであるHに相談したら
”その辺でしなさい”との事・・・
一応数人で周りを囲み”目隠し”として
シャ~・・・
フィリピンでは日常茶飯事ですので
気にする者は居ません・・・
だがしかし
ネットで拾ったイラスト
僅か9ヵ月ではあるが日本生活で習得した
”恥じらい”と言う意識が弊害となった様だった・・・
尤もその時にM子を囲んだ皆が
M子の方を向いていた為でもあった様だが
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逆に緩いフィリピンで生活していると
電柱を視ると片足を上げたくなる者も
穀倉地帯には居るらしい・・・