【アーカイブ配信】9月は子どもの #不登校 や #自殺 が多くなる傾向があります。その前に、竹田淳子さんをゲストに歌舞伎町でトークイベントをし、 #生きづらさ を考えました。有料ですが、聞き逃した方は要チェック!

 

歌舞伎町の中心で生きづらさを考えるーー「子どもの自殺はなぜ増え続けているのか」出版記念トーク ROCK CAFE LOFT|ロックカフェロフト(@rockcafeloft)

 

https://premier.twitcasting.tv/rockcafeloft/shopcart/384727

 

 

 

 東日本大震災の被災体験の中で、なかなか表のメディアでは掲載されていないものもある。その中の一つは、夜の街の話だ。震災当時から、夜の街で話を聞いているが、その体験談の一部を取り上げる。

 14年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災は、夜の街にも影響があった。歌舞伎町ではキャバクラ嬢が出勤できない状況になった。そのため、開いている店が少なく、客はほとんどいない。ある客引きは、「ほとんどの女の子は電車が止まってしまったので、来られません」と話していた。震災は、夜の街、キャバクラにどんな経験をさせていたのか。

東洋一の繁華街と言われる歌舞伎町(撮影:渋井哲也)*写真は直接関係ありません。

東洋一の繁華街と言われる歌舞伎町(撮影:渋井哲也)*写真は直接関係ありません。

 

 東京近郊の電車はほとんどがストップした。歌舞伎町周辺に住んでいるキャバ嬢をのぞけば、出勤したくてもできない状況になった。歌舞伎町周辺に住んでいたとしても、昼間は別の仕事をしていたりすると帰宅困難者になり、出勤できない。

地震のときは「起きていなかった」

 震災直後は、地震の話題で持ち切り。サトミ(仮、当時23)は「寝ていたんです。そしたら、誰かが起こすような感じだったんです。でも、寝てしまったんです」と話す。

 東京では地震の時、寝ていて、起きなかった人もいたという話を、このキャバ嬢以外からも聞いていました。

 この夜、私は、新宿ゴールデン街のバーに行った。その時、ある客が「何かあったんですか?街に人がたくさんいるけど」と話しかけて来た。地震があったことを説明すると、「本当ですか?寝ていたので知りませんでした」と驚いていた。

 「寝ていて起きなかった」という話は東京だけではない。

東北の繁華街・仙台市国分町(12年2月22日、撮影:渋井哲也)

東北の繁華街・仙台市国分町(12年2月22日、撮影:渋井哲也)

停電の中で携帯電話はどうしたのか

 仙台市の繁華街・国分町で話を聞いた時も、起きなかったキャバ嬢がいました。マユ(仮、当時19歳)は仙台市よりも内陸部に住んでいた。3月11日の地震で最大震度7を記録した場所だ。そんな場所でなぜ起きなかったのか。

 「あ、地震だ、って思いましたよ。でも、揺れただけです。ぬいぐるみは落ちてしまいましたが、それ以上ではありませんから、また寝ちゃいました。ただ、その後、揺れ続けたじゃないですか。だから怖かったんです。ですが、怖いと思って、布団をかぶっていたら、また寝ちゃったんです」

 震災直後、停電になった。そうなると、キャバ嬢にとっても命と同じ携帯電話の電源の供給ができない。それは、仕事をしている身としては死活問題だ。しかし、マユは慌てなかった。

 「だって、うちのお父さんが自家発電機を持っているんです。仕事がら、ですかね。だから、携帯の充電もまったくの余裕でした」

 内陸部だからよかったが、沿岸部で住んでいたら、こうした余裕を持っていると、津波に飲み込まれてしまいかねない。しかし、実際に飲み込まれてしまったキャバ嬢もいた。

津波とは思わず、『え?何?』とびっくり

 アオイ(仮、当時20)は沿岸部出身だ。震度は5強だった地域だ。町災害対策本部によると、携帯電話が通じないばかりか、固定回線もつながらない。通信業者の話では、そこまで被害が大きくなるとは想定外だった。

多賀城市(11年3月28日、撮影:渋井哲也)*写真は直接関係ありません。

多賀城市(11年3月28日、撮影:渋井哲也)*写真は直接関係ありません。

 

続き

 

https://shibutetu.theletter.jp/posts/3abaa570-00f9-11f0-8881-db082993d6de

 

 

 インターネットの自殺系サイトで、心中相手を探していた義紀(仮名、18)だ。彼とは一度だけ東京・新宿で会った。それだけだが、相当に入念な計画をしていたことがわかった。もし生きていたら、また会おうと言って別れる。そして高速バスで帰って行った。なぜ、そこまでの想いに至ったのか。彼を偲ぶために、当時の取材を振り返る。

 

両親ともに新興宗教の信者。近所に遊び友達はいない

 新宿駅西口交番前で義紀と待ち合わせた。痩せ型で身長は160センチ台に見える。服装はラフだ。喫茶店でコーヒーを頼み、話をすることになった。義紀はなぜ「死にたい」と思うようになったのか。

 義紀は中国地方の農村で生まれた。その農村で、誰もが知る新興宗教を信じる両親に育てられた。父親は以前から宗教そのものに興味があり、母親は親類がその新興宗教の会員だった。宗教を信じる環境に置かれていた。今の言葉で言えば、「宗教2世」だが、当時は、そうした言葉は一般的ではない。ただし、両親が共に宗教を信じているということは、偏狭な考え方の中で育てられたことをイメージできた。

 人口が少ないその農村では、信者の数を安定させるために、宗教団体から他の地方へ送り込まれる人もいた。しかし、その農村で新興宗教を信じること自体、教義の内容如何を問わず、とても狭い社会に生きることになる。当然、他の子どもと「違った人」「変わった人」と思われることは想像がつく。

 義紀だけが保育園も幼稚園にも行っていたなかった。そのため、近所に遊ぶ友達はいなかった。友達の家には遊びにいくこともできなかった。同年代が遊んでいるテレビゲームは暴力的なものがあるとして、親から禁止された。

小学校からはいじめを受ける。

 そうしたこともあり、一年生のころから、学校でいじめをうけた。髪を引っ張られたり、殴る・蹴るといった暴力もあった。みんながする遊びをしないことが、いじめの理由になった。

 

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