時代を駆ける:中村修二/1 大勢の敵に2人で挑戦、青色LED訴訟 毎日jpからです。
この国の仕組みが見えるとようになると前近代的だということが分かるのでしょう。自分自身に真の能力を見出した人はこの国から出て行ってしまうのでしょうね。
大変残念な国に生まれてしまったものです。官僚や政治家が他の国の為に国を作ってきてしまったせいですね。まずは独立した国になる必要があすのでしょうね。
<転載開始>
時代を駆ける:中村修二/1 大勢の敵に2人で挑戦、青色LED訴訟
◇SHUJI NAKAMURA
<2004年1月30日、東京地裁で注目の判決が言い渡された。日亜化学工業(徳島県阿南市)に対し、青色発光ダイオード(LED)発明の対価として、元研究員の中村さんに200億円を支払うよう命じた>
東京地裁の判決について記者会見する中村さん=司法記者クラブで04年1月30日、内林克行撮影
判決を聞いた瞬間はうれしかったです。請求全額が認められるとは期待していなかったから。低い金額だったら日本中の技術者がショックを受けると思っていたので、正直言ってほっとしました。一方、日亜は控訴してくるだろうから、高裁でどうなるかと不安もわいてきました。
<日亜は即日控訴。1審判決から1年後の05年1月11日、東京高裁で8億4391万円で和解した>
和解で「中村はうまいこともうけた」と言う人たちもいましたが、金よりも、私には「勝ち」「負け」の方が重要だった。この和解は自分には「負け」だったのです。
和解という決着も金額も納得できませんでした。でも升永(ますなが)さん(英俊弁護士)から「日本は判例主義で、サラリーマンの生涯賃金の3倍、6億円を上回ることはない。最高裁で頑張っても減額されるだけ」と強く説得されました。
米国では、原告、被告双方の記録を残らず提出させ、真相を徹底的に調べます。日本では真実を追究して正義を貫こうとしない。こんな日本の司法制度にも愛想が尽きました。とはいえ、ここまでやれたのは升永さんだったからです。かっこよくいえば、大勢の敵に2人、徒手空拳で立ち向かって、最後は死ぬ。でもいい戦いをしたなあという気分でした。
<経営側からは「高額の報酬は経営リスクになる」「日亜にいたから製品化できたのだ」と批判的な意見が続出した>
日本経団連にとっても霞が関(中央官庁)にとっても私は敵ですよ。「社長は殿様、社員は家来、滅私奉公して会社に尽くす」という日本型の文化にたてついたんですから。青色LEDの開発では会社の指示を無視し黙って特許を出し、会社はそれで急成長しました。
<提訴は日亜を辞めて渡米した後の01年8月>
99年の暮れに退職しました。秘密保持契約に署名を求められましたが、拒否しました。渡米してまもなく、日亜が米国の裁判所に私を訴えました。在職中の秘密を米国で漏らしているという主張でした。自分を守るため反訴を決め、日亜が米企業との間で特許訴訟をしていた時に米企業の代理人だった升永さんに相談したんです。
<特許法35条は「職務発明の特許権は発明者にあるが、それを譲渡された会社は相当の対価を払う」とある>
升永さんは消極的で「中村君、勝っても100万円がせいぜい。費用を考えたら持ち出しだ」と。いったん、あきらめました。1、2カ月後、升永さんから電話があった。「いろいろ調べた。すごい発明だから100億、200億取れるかもしれん。やろう」と正反対の返事です。信じて任せました。(会社側が訴えた)米国での訴訟も3年後に勝訴しました。
<8億円は発明訴訟として最高額。それだけ画期的な発明だった>
光の三原色のうち、赤と緑のLEDは東北大の西澤潤一先生が実現。残る青だけは世界の誰も作っていませんでした。
大企業が優秀な人材と巨額の研究費をつぎこみながら実現できないことを、田舎の小さな企業にできるわけがないと思っていました。しかし、困難だからこそやりがいがあります。金も人もない、そんな状況でできたのは、幸運に加え日亜という会社の環境と、負けず嫌いな私の性格が影響していたかもしれません。
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聞き手・元村有希子/「時代を駆ける」は月~水曜日掲載です。
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■人物略歴
◇なかむら・しゅうじ
工学者。米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。1954年5月22日、愛媛県生まれ。79年、徳島大大学院を修了し、徳島県阿南市の蛍光体メーカー「日亜化学工業」に入社。93年、高輝度の青色発光ダイオードを世界で初めて製品化した。94年、徳島大で博士号取得。仁科記念賞(96年)、フランクリンメダル(02年)、ミレニアム技術賞(06年)など多くの科学賞を受けている。
毎日新聞 2009年8月10日 東京朝刊
<転載終了>