世の中が勝手に定めた様々な優劣の割合の保持によって、個人の世界の見方は左右される。
優れていようが妬まれ、劣っているからと笑われ、自我の考えを早期から見出ださなければ外の悪意に心は蝕まれる。
勉学の習得度、見目の美醜、礼節の弁え、個を持っていても和を乱さない協調性。
周りからどう評価されようが、優越感と劣等感のどちらかを持つ時点でその2つを同時に育てることになる。
世間と、他人と関わる限り私達はひとりで定めた世界には行けない。
奇抜と言われる髪型や服装、ただ好きなものを取り入れて過ごすこと、大衆的でない事柄を否定する人間も世の中には多く居る。
他人の生活を害さない、法律を侵さない上での振る舞いや物の選り好み、各々が選んだ考え方や生き方に「変わってる」「狂ってる」「普通じゃない」「おかしい」
そんな小っぽけなダニのような単語しか吐けないものの見方をする人間こそ、世の中が勝手に制定した「普通」「基準」「当たり前」というただの指数に洗脳されているのでは?
私は自分の頭で物事に疑問を持って考えられる人間以外と話してエネルギーを使いたくない。
愛想笑いも場の空気に合わせるのも、自分の定めた生きていく場で欠いては恐ろしいと思う人も、自身がそうである必要と定めただけ。
どんな人間にも優劣は無い。
生き方が法律に反するか、他人の生き方や考え方に身勝手な自身の道徳とするものを押し付けるか、自分とは異なる価値観や人生の人を無意識に見下す心となるか。
自分や他人の失敗や欠点だと思う部分、良いなと感じる部分も、そんなに強く意識せず自然体に過ごせたらコバエの音も気にしなくて済むけれど。
お父様、私はひとりで生きることを選んで、ますます神経質さに磨きがかかりました。
ずっとひとりで居ると自分としか会話をしないから、より在りたいと思う自分の世界に潜れるのだと思います。
ただ、他人とたおやかに過ごすことが難しい自分には成ります。
多くの人が自分と同じような境遇や境地であるように、また違うように。
私が叶えたかったことは
・父母に隣で寝て貰って絵本を読んで貰う
・お母さんとお菓子作りをする
・お父さんお母さんと英国式アフタヌーンティーを共にする
・家族でお祭りに行く
・お母さんとショッピング
家族とは言っても、各々違う価値観や性格を持ったひとりの人間です。
家庭によってその在り方は違います。
でも父母が話を沢山聴いてくれて、行事ごとに一緒に楽しんでくれることが、子供の精神にとってどれだけ自我への愛情を育める思い出となるか。
私は叶えられないことを代替物で補って来ましたが、能と身体に不健全な依存性を持たせる結果となりました。
多くの人が、各々の苦悩や仕事でのストレスと忙しさを紛らわせるために、酒・煙草・ギャンブル・嗜好品・関係・行為、そういったものに他人から理解して貰うのを見限った自己の傷を、剥がれやすいもので何度も埋めている。
どんな考え方を持った人も、その血筋とその過ごした境地、その文化から逃れることが出来るのは、外の世界を拒絶して内側に自分だけの庭園と邸宅を作り上げ自らの死への棺桶を完成させた時だけ。
他者や世界を怖がらずに共に過ごせたなら、それらに根付いた自己から逃げる必要はない。
お父様、私は周りから笑われない見目になっても、場と相手に見合った音だけの発言を卒なくこなせるようになっても、それを軽やかにこなせる能力値ではない私には我慢の効かないものでした。
我慢なんて下らない、上品だの賢いだの美しいだの、私とは真逆の感性の場に私は居たくない。
私は世間の基準から見れば不細工で地味で攻撃的な気質で誰も寄って来ようとは思わない人間です。そう、それが私。
子供の頃の私に言いたい。
あなたが自分の性格や意見、見目を変えてまで成らなければいけないと思わされた「普通」こそ、あなたにとってはとても下らない価値のないものだと。
他人や世間にとってはとても価値のあるものでもあるから、自分が必要としないと言う点だけを押さえてと。否定も関心も持たなくて良いと。
基準に中身と外身を沿わせ、人から見下されなくなっても、笑われなくなっても、それは私に振る舞われたものじゃなくて、「似通った形の人間」に対して振る舞われたただの通過形式に過ぎないのだと。
定めた自己がその人間の棺となります。
苛みから人は自己とは真逆の性質を取り入れることで打消しを謀ります。
「人から穏やかだと言われる」
「真面目」
「ユニークなやつ」
「家庭的」
「安心感がある」
「よく相談を持ち掛けられる」
自然と身に付いたもの、素養、意識せずにする立ち振舞いは、わざわざ言葉にして他人に表明する意図がありません。
相手がわざわざ言葉にする自己見聞には、真逆の性質を備えている危険性も孕みます。
本人は気付いていない場合も多いです。
自己認識は他人の認識からは全く別のものに感じると理解して、接する場面場面の積み重ねに傾聴力を伴わせるのが相手への敬意となり得ます。
それ以外の押し付けがましい気遣いや行為はただのイケないオナニーです。
植え付けられた価値観や欲望を身に注いで、それが固執して棺となる。
全て文化や環境によって与えられた中身であって、私達自身の本質なんてどこにも無い。
本質なんて求めるものでもない。
そんな時間が勿体ない。
宗教・心理・スピリチュアルは人の在り方に救いがあるように内容や信仰対象を言葉で表しているだけの、ねずみ講と同じメカニズムです。
当事者の本質や在り方を探って、信仰対象・理論上の知識を見聞きして、人生そのものや物の見方が変わって楽になれるのは、豊かな物質だけが溢れた現代人こそ抽象的な概念に無為な時間の経過を崇拝することによって軽減させるサービス業の1つです。
私達は悩む心すら利便性に富んだ世の中から買っているんです。
だからその中身を変えられないからこそ、楽しむことにすれば事足りる。
どの時代の人間も同じような事で悩んで来たのも、根付かせられてきた文化と環境でしか成り立てない思考の仕組みにされてるから。
私達って、結局は見目や境遇の優劣の差があれ、同じようなものに苛まれている。
褒められても貶されても、もう長いこと私の心にはピンと来ない。
だからとてもつまらない。
今の私にとって何よりワクワクすることは、賢い人の神経を逆撫ですること。
でもそんな人達はエネルギーと時間だけが奪われると一瞬で勘づいて逃げられる。
だから、私の人としてだいぶ幼くて下品な人間性を恐怖で圧倒して躾てくれるお父様が欲しいんです。
表面上だけであれ、畏怖こそ人を変化させられる。
お父様が私より賢くて品性がある方なら、まずは会ってお話をしましょう。
お父様が私と少し話してただの下品なプッシーだと思えば、5分程で席を立てば追いません。
お父様に泣かされたい、尻を叩かれたい、圧倒的な腕力の差を思い知らされたい、この粋がった人間性を怠け者の逃避と見下されたい。
私より馬鹿と判断したら奇声と唾をまき散らしてお父様の様々なやる気を削ぎ落とします。
zikyazofa@instmail.uk
優れていようが妬まれ、劣っているからと笑われ、自我の考えを早期から見出ださなければ外の悪意に心は蝕まれる。
勉学の習得度、見目の美醜、礼節の弁え、個を持っていても和を乱さない協調性。
周りからどう評価されようが、優越感と劣等感のどちらかを持つ時点でその2つを同時に育てることになる。
世間と、他人と関わる限り私達はひとりで定めた世界には行けない。
奇抜と言われる髪型や服装、ただ好きなものを取り入れて過ごすこと、大衆的でない事柄を否定する人間も世の中には多く居る。
他人の生活を害さない、法律を侵さない上での振る舞いや物の選り好み、各々が選んだ考え方や生き方に「変わってる」「狂ってる」「普通じゃない」「おかしい」
そんな小っぽけなダニのような単語しか吐けないものの見方をする人間こそ、世の中が勝手に制定した「普通」「基準」「当たり前」というただの指数に洗脳されているのでは?
私は自分の頭で物事に疑問を持って考えられる人間以外と話してエネルギーを使いたくない。
愛想笑いも場の空気に合わせるのも、自分の定めた生きていく場で欠いては恐ろしいと思う人も、自身がそうである必要と定めただけ。
どんな人間にも優劣は無い。
生き方が法律に反するか、他人の生き方や考え方に身勝手な自身の道徳とするものを押し付けるか、自分とは異なる価値観や人生の人を無意識に見下す心となるか。
自分や他人の失敗や欠点だと思う部分、良いなと感じる部分も、そんなに強く意識せず自然体に過ごせたらコバエの音も気にしなくて済むけれど。
お父様、私はひとりで生きることを選んで、ますます神経質さに磨きがかかりました。
ずっとひとりで居ると自分としか会話をしないから、より在りたいと思う自分の世界に潜れるのだと思います。
ただ、他人とたおやかに過ごすことが難しい自分には成ります。
多くの人が自分と同じような境遇や境地であるように、また違うように。
私が叶えたかったことは
・父母に隣で寝て貰って絵本を読んで貰う
・お母さんとお菓子作りをする
・お父さんお母さんと英国式アフタヌーンティーを共にする
・家族でお祭りに行く
・お母さんとショッピング
家族とは言っても、各々違う価値観や性格を持ったひとりの人間です。
家庭によってその在り方は違います。
でも父母が話を沢山聴いてくれて、行事ごとに一緒に楽しんでくれることが、子供の精神にとってどれだけ自我への愛情を育める思い出となるか。
私は叶えられないことを代替物で補って来ましたが、能と身体に不健全な依存性を持たせる結果となりました。
多くの人が、各々の苦悩や仕事でのストレスと忙しさを紛らわせるために、酒・煙草・ギャンブル・嗜好品・関係・行為、そういったものに他人から理解して貰うのを見限った自己の傷を、剥がれやすいもので何度も埋めている。
どんな考え方を持った人も、その血筋とその過ごした境地、その文化から逃れることが出来るのは、外の世界を拒絶して内側に自分だけの庭園と邸宅を作り上げ自らの死への棺桶を完成させた時だけ。
他者や世界を怖がらずに共に過ごせたなら、それらに根付いた自己から逃げる必要はない。
お父様、私は周りから笑われない見目になっても、場と相手に見合った音だけの発言を卒なくこなせるようになっても、それを軽やかにこなせる能力値ではない私には我慢の効かないものでした。
我慢なんて下らない、上品だの賢いだの美しいだの、私とは真逆の感性の場に私は居たくない。
私は世間の基準から見れば不細工で地味で攻撃的な気質で誰も寄って来ようとは思わない人間です。そう、それが私。
子供の頃の私に言いたい。
あなたが自分の性格や意見、見目を変えてまで成らなければいけないと思わされた「普通」こそ、あなたにとってはとても下らない価値のないものだと。
他人や世間にとってはとても価値のあるものでもあるから、自分が必要としないと言う点だけを押さえてと。否定も関心も持たなくて良いと。
基準に中身と外身を沿わせ、人から見下されなくなっても、笑われなくなっても、それは私に振る舞われたものじゃなくて、「似通った形の人間」に対して振る舞われたただの通過形式に過ぎないのだと。
定めた自己がその人間の棺となります。
苛みから人は自己とは真逆の性質を取り入れることで打消しを謀ります。
「人から穏やかだと言われる」
「真面目」
「ユニークなやつ」
「家庭的」
「安心感がある」
「よく相談を持ち掛けられる」
自然と身に付いたもの、素養、意識せずにする立ち振舞いは、わざわざ言葉にして他人に表明する意図がありません。
相手がわざわざ言葉にする自己見聞には、真逆の性質を備えている危険性も孕みます。
本人は気付いていない場合も多いです。
自己認識は他人の認識からは全く別のものに感じると理解して、接する場面場面の積み重ねに傾聴力を伴わせるのが相手への敬意となり得ます。
それ以外の押し付けがましい気遣いや行為はただのイケないオナニーです。
植え付けられた価値観や欲望を身に注いで、それが固執して棺となる。
全て文化や環境によって与えられた中身であって、私達自身の本質なんてどこにも無い。
本質なんて求めるものでもない。
そんな時間が勿体ない。
宗教・心理・スピリチュアルは人の在り方に救いがあるように内容や信仰対象を言葉で表しているだけの、ねずみ講と同じメカニズムです。
当事者の本質や在り方を探って、信仰対象・理論上の知識を見聞きして、人生そのものや物の見方が変わって楽になれるのは、豊かな物質だけが溢れた現代人こそ抽象的な概念に無為な時間の経過を崇拝することによって軽減させるサービス業の1つです。
私達は悩む心すら利便性に富んだ世の中から買っているんです。
だからその中身を変えられないからこそ、楽しむことにすれば事足りる。
どの時代の人間も同じような事で悩んで来たのも、根付かせられてきた文化と環境でしか成り立てない思考の仕組みにされてるから。
私達って、結局は見目や境遇の優劣の差があれ、同じようなものに苛まれている。
褒められても貶されても、もう長いこと私の心にはピンと来ない。
だからとてもつまらない。
今の私にとって何よりワクワクすることは、賢い人の神経を逆撫ですること。
でもそんな人達はエネルギーと時間だけが奪われると一瞬で勘づいて逃げられる。
だから、私の人としてだいぶ幼くて下品な人間性を恐怖で圧倒して躾てくれるお父様が欲しいんです。
表面上だけであれ、畏怖こそ人を変化させられる。
お父様が私より賢くて品性がある方なら、まずは会ってお話をしましょう。
お父様が私と少し話してただの下品なプッシーだと思えば、5分程で席を立てば追いません。
お父様に泣かされたい、尻を叩かれたい、圧倒的な腕力の差を思い知らされたい、この粋がった人間性を怠け者の逃避と見下されたい。
私より馬鹿と判断したら奇声と唾をまき散らしてお父様の様々なやる気を削ぎ落とします。
zikyazofa@instmail.uk