寛容さが失われた内観世界。
精神の支柱を他者の中に求め、自分の傍に置きたいと静かに絶えず望む心は子供なのか?

寛容的な他者との調和世界。
傷付くことを受け入れ、また傷付く云々に着目を置かず飄々と身をこなして生活していく細く静かな忍耐が大人なのか?


他者との共同生活、子孫繁栄の文化に沿った人生を選択したならば、他者理解に重きを置いた思考である方が、周囲への害は低く見積もれる。
多少の摩擦は起きるが、2人以上の人間が居る場ではそれが健全。

私は自我を強く育てた攻撃的な自負心を捨てられないし、それがこれまで自分を守れなかった無知な私の部分を補うように、身勝手な価値観や圧迫感のある態度で人を見下したり虐めたりする人間達から守ってくれるようになった。

自分から暴力や暴言を振るうことはないけれど、関わることを望んでもいない人間に勝手な言い分を送られたり、相手から手を出してくれば、元々の攻撃的な気性が土台となっている私はその機会を逃さない。
私は気性に思考まで乗っ取られてしまう。


大衆的に恥ずかしいと思われる考え方だから未熟、精神が大人に成りきれていない子供のような願望と父性や母性を求める人間は批評の対象にもなってきました。

では強姦紛いのパートナーへの性の強要や、子育てや家事をしないのに家庭だけ子だけ成すだけの人間が文化的な役割を立派に果たしていると見なされるのは?

そんな人間が溢れた世間なら、私は攻撃的で誰からも受け入れられない父性を求め続ける自我を持って、死が生涯求めた父性への応えられることのない望みだと受け入れます。
それが私の求めた私の人生と私自身への責任を果たしたのだと。
私は私を恥だと思わない。
そう思わせてくるものこそ、私には必要がない。
私が周囲に実質的な害を与えない、厳しく自身の内側にも攻撃的な自分で在る限り。



親が子がひとりで生きられる思考を土台作る生育環境を少しも考えることなく、その子自身がどういった性格でどんなことに向き不向きがあるか考えもせず、世間の「普通」皆の「当たり前」を押し付けてそれが出来なければ溜め息や怒鳴り声、挙げ句手をあげる親こそ「未成熟な身体だけが大きい子供」なのでは?

私は攻撃的になってでも、誰からも少しも理解される必要がなくなって孤立しても、自分だけの勝手な寂しさと辛さを有り合わせの思考や存在で埋め合わせて、無責任な関係や家庭なんか作らなかった。作れなかった。
だから求めた、たった一瞬会えるだけの自己救済という幻想に。理想のお父様像を構築して求めることが安らぎだった。

結婚して素敵な家庭を持つこと、が未成熟だと見なされない定型文なのに、どうして私のような父性を求める人間は未成熟な思考だと遠巻きにされるのか。
それが大多数にとって遠巻きにされる人間の在り方だとされているなら、そこに私が留まっている必要はない。
私は目覚めないことで、父性を追わなくて済む自己の救済に走るだけ。

この広い地では同じ言語を使う人間すらとても少ない。似たような感性や思考でも言葉が異なり、実際に会えることがない世、何かを発信してもお父様に届くことがないのなら、短気で忍耐力のない私に生存は向いていない。それだけのこと。
お父様の膝の上に乗って、甘えたかった。
優しくいろんなことを教えて貰いたかった。

世間に揉まれて悩まされる考え方こそ変えるべきだ、変えてあげよう救ってあげようなんて、そんな押し付けこそ望んでいません。
私は今の私で居ることはとても苦しいですが、自分で選択した生き方です。
隅から隅まで自分で作ってきた人生を、他人に差し替えられる薄っぺらな部分は1つも無い。
変えたい部分があれば自然と変えていきます。

お父様、私だけのお父様に夢見心地の時間を過ごしたいだけ。
多くの人が趣味や娯楽を定期的に摂るように、私の充足感を求めることがお父様探しというだけ。
夢から醒めるような長期的で忍耐力の要る関係性なんて、妬み嫉みの化身の母親と、その母親にしか心の拠り所と働き口がない暴力の化身の父親から産まれた売女には無理な話です。

身体の処女を好きな相手に委ねられなかったから、心の処女性を心から身を任せられる相手に委ねたいだけ。それを思い出にしたいだけです。

誰かに実質的に被害を出していればその考え方の改善への責任は問われますが、私は今のところ前科無しです。
いつまでも夢見心地な子供で居ることに恥を持たない、肝が小心者なだけです。