新しい家族のカタチもようやく出来上がったかな、と思っていたこの頃でしたが、妻は深い悩みの中にいるとわかりました。
家族の“世話”に時間を取られ、それが生活のすべてとなってしまうことで、「私の人生はなんなのか」と悩むママさんは多いと思います。
妻の悩みもまさにそれなのですが、“普通のママさん”以上に答えが無い状況。
普通のママさんであれば、夫にムカつきながらも、二人で過ごしてきた日々が支えになり、また二人三脚で作ってきた夫の飛躍や社会的成功も、幾分は慰めになることが。
子ども達にも頭にくる日々ですが、やはり自ら生み、赤ちゃんの頃から育ててきた彼らの成長そのものが喜びになることも。
しかし、妻にはどちらもありません。
夫と過ごした二人の日々はありません。
はじめから三人ですから。
夫もある意味で、はじめから完成品。それは完成度が高いという意味ではなく、スタイルが確立されてしまっているという意味で。
子どもには、優しく接し、成長を促しますが、そこにあるのは人類愛や博愛であり、大人として一方的に与える愛。本人にとってエネルギーの放出であり、そこからエネルギーを得るものではありません。
そう、妻は、家族のカタチを保つために一方的にエネルギーを放出しているのであり、保たれた家族のカタチからは一切エネルギーが得られていないのです。
私と息子にとっては、三人で過ごせる家の時間がエネルギーの源となっていますが、妻にとってはそうではない。
この一年半、潜在的にずっと存在し続けてきて問題。時に激しく噴火してきましたが、今回は静かな告白。
そして、彼女の中で、被害者意識の塊となった自分を叱り、鼓舞してきたある哲学との決別があったのが今朝。
果たして、ここからどうなるのか。
都度都度対処しながら、時間が解決していくのか。
それとも構造的、本質的に無理なことに挑んでいたことが、時間とともに明確になってくるのか。
どちらかはわかりませんが、前者と信じて進むしかありません。