昨日は、栃木の山奥にある古峯神社とその庭園へ。

三人で庭を見ながら、父子の距離について思い、考えました。

父子二人のコンビで生活してきた時と比べ、三人での生活になると、息子との距離は必然的に変わってきます。

先へ先へと進む小学生男子と、じっくり庭を楽しむ妻。

「お父さん、早くこっち!」と呼ぶ息子に、昔のように「はいはい」と応じない自分。大人同士語らいながら庭を見たいため、自然と息子だけが突出して前へ。

しかし、そのことに“罪悪感”を覚えてしまった私は、いつしか、息子と妻とも離れた両者の中間を歩いていました。


庭園を先に先にと進む息子と、ゆっくり見ていく血の繋がらない母親。二人の距離が、急に恐ろしくなったのです。

どちらとも接点のある人物が、その中間にいなければ、この三人は家族では無くなってしまう。
そう感じて、息子の呼び掛けにも応じず、かと言って妻の傍らにいる訳ではない、私の奇妙な庭園歩きになってしまっていたのです。

その背景には、長い休みの中で、毎日ずっと一緒に過ごす家族の中でのイライラの蓄積があります。

どの家族にもあることですが、血が繋がっていない者の間でのイライラは、離反の始まりのような恐ろしさを間に立つ者に感じさせるのです。

そんなことを思い、いつしか私は疲れ果ててしまいました。
そして、妻と息子がお土産屋をのぞいている間、神社の橋に寄りかかり、ぼーっと川の流れを見ることに。


気がつくと、お土産屋を出た妻と息子が、二人でニコニコしながら、迎えに来てくれました。

そんな二人の様子が嬉しくなり、心の中の鉛のような塊が溶けました。

かつてと異なる息子との距離感に、“罪悪感”を覚えることそのものが、大きな間違いなのだろうと、思えました。

息子と妻のどちらに対しても100%寄り添えないことに、それぞれ申し訳なさを感じることに、根本的な誤りがある。

無駄な気遣いが、自分を無用に追い込んでいました。

ずぼらな癖に心配性な変な気の配り方を、そろそろ卒業しようと思いました。

ちなみに、息子は広い庭園を探検でき、妻はじっくりと庭を楽しめて、二人とも楽しかったそうです。

私も、私のためのペースで庭を楽しめばよかったな(笑)。



死別父子家庭の再婚は、「再婚できてよかったね」では終わらないのだと日々痛感します。
赤の他人が家族になっていくのは、大変なこと。
そこには気配りが必要です。

でも、ビクビクし過ぎてもいかんのです。