越生に行ってきました。

高麗神社にご祈祷に行った後で、越生梅林に足を伸ばし、そのまま龍穏寺にも行ってみました。

太田道真・道灌節のお墓にもお参りしました。

現地に行ってみると、いろいろと見えてくるものがあります。

越生では、太田道真の故郷は越生であり、道灌も越生で生まれたと伝えられているのですね。

史料根拠があるのかはわかりませんが、「河越千句(川越千句)」で、道真が歌った山里の梅は越生の梅である、という越生梅林の解説は、なるほどと思えました。

龍穏寺は、龍ヶ谷川に寄り添うように建っており、なるほどここは龍の地だと実感。山間を蛇行して流れる龍ヶ谷川も、龍そのものの赴きがありました。

勘違いも解消しました。
私は、道真の隠居の地、自得軒が龍穏寺敷地内にあったと読んだ記憶があったのですが、それは建康寺の方でした。危ない危ない。原稿も直さねば。

越生に行って感じたのは、かつての太田氏領国の広大さです。

岩槻から川越を経て、遥々至る越生のなんと遠いことか。この広大な地域が、扇谷上杉氏家宰であった太田氏の指呼の間にあった。

仮に岩槻が、黒田基樹氏が主張するように常に古河公方側の支配下にあったとしても、隣の足立郡が太田氏の支配下にあったことは間違いの無い史実。

道真時代の太田氏の勢力圏は、東西に広大な広がりを有していたのです。

そしてこの勢力圏は、はるか南東の江戸城に居した太田道灌によって南北にも広がるものとなり、その影響力はさらに南の鎌倉をも覆っていました。

なんという広さ。
なんという権力。
そして、なんという権勢か。

一方で、この山深き越生から見える風景に、私は不吉さも感じてしまいました。
越生の山里の風景と、江戸湾に面して東に房総を望む江戸の風景のなんと異なることか。その違いを思う時、道真・道灌父子の情勢の読みや利害が時に一致しなくなったであろうが容易に浮かんできます。

道真と道灌という二人の傑物によって成されたこの大帝国は、二人の間を常に行き来した痕跡のある道灌の弟資忠の調整によって機能した形跡があります。

山の越生からは肌で感じることのできる、北の山内上杉氏が抱く太田氏への警戒と苛立ちは、海を眺める道灌には遠すぎますが、両者の間を行き交う資忠は、道真の懸念を道灌に伝えたはずです。

しかし、その資忠はやがて戦死します。
資忠の死後、道灌、房総の千葉氏との泥沼の抗争に更にその身を投じたことは、山内上杉氏との関係を大いに悪化させ、主君扇谷上杉定正による道灌謀殺の背景のひとつとなっていきます。

道真は、破滅の道をひた走る息子道灌を、越生からどう見ていたか。

道灌が殺される年、道真は、道灌のもとにあった詩人万里集九を越生に呼び寄せて歌会を開いています。
あるいは、道灌と深い関係のあってこの詩人に、道灌の様子を聞くことが、この時の歌会の真の狙いであったようにも思えます。

しかしその甲斐無く、傲れる道灌は、山内上杉氏に唆された扇谷上杉定正に、騙し討ちにあって殺されることになります。

龍穏寺に並ぶ道真・道灌父子の墓を手を合わせながら、生前の二人の見た世界の違いに、想いを馳せました。