今朝は曇天でしたが、雲の色に少し鮮やかさがありました。
写真右奥は、以前も紹介した岩槻城の南の守り、鍛治曲輪と新曲輪の森。
しかし今日は、この森の彼方先、元荒川の下流に少し思いを馳せました。
元荒川(戦国時代は荒川本流)は、下流で中川に合流して江戸湾に注ぎます。小田原北条氏が江戸と河越(川越)を押さえてしまった戦国時代中期以降、この河川ラインは、内陸に辛うじて生き残った旧勢力・扇谷上杉氏が、海上物流にアクセスするための最後の生命線となったそうです。
それゆえ、中川の河口には、この河川ラインの海へのアクセスポイントを死守するための要害がありました。
葛西城です。
後に、北条氏によって、古河公方が移座されることにもなったこの城は、今は何も残されていませんが、往時は第一級の戦略要所。
戦国時代を通じて、争奪戦が繰り返された場所でもありました。
我らがさいたま市の戦国武将・太田資正にとっても、葛西城は重要でした。永禄三年~四年の上杉謙信による第一次越山(関東遠征)の際には、資正は謙信に味方し、真っ先に葛西城の攻略を行っています。
実は、資正の義理の兄(姉婿)である、大石石見守は、元葛西城主。北条氏に葛西城を奪われてからは、義理の弟である資正を頼って岩槻に亡命していました。
厩橋(前橋)まできた謙信の下に、関東中の反北条の地元領主らが集った際の記録である、『関東幕注文』では、大石石見守は、資正に次ぐ岩槻衆の筆頭として名を連ねています。
元城持ち領主として、そして資正の義兄として、大石石見守は、岩槻衆において重きをなす存在だったのでしょう。
謙信の関東遠征と連動した葛西城攻めは、かつての居城を取り戻そうとする、資正の義兄、大石石見守の悲願成就としてなされて側面もあったように思えてきます。
謙信とともに北条氏と戦う決意を下すまでの十年間、資正は、北条氏配下の岩槻領主でした。
その臥薪嘗胆の日々において、資正は、義兄・大石石見守とともに、遠く荒川下流を望みつつ、葛西城奪還への想いを聞いたこともあったのではないか。
今朝は、そんなことを妄想しました。
【参考】
最初は、ここから、今朝の駐車場での空手稽古は・・・と繋げるつもりでしたが、長くなりすぎたので、稿を改めることにします。