思い付いたままに。
史跡で辿る太田資正(三楽斎)の生涯。
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1.武州松山城址(埼玉県吉見町)
資正は、腹違いの兄・資顕とは不和。
父・資頼が他界し、兄が岩付太田氏の当主となった頃に岩付(埼玉県さいたま市岩槻区)を出て、難波田善銀の婿養子となる。
期間は、天文7年(1538年)頃~15年(1546年)。資正は16歳~24歳。
資正はこの青年期を、義父・難波田善銀の居城・武州松山城で過ごしたことになる。
この時、資正の主家・扇谷上杉氏は、北条氏に領国を侵食され続けて衰退の一途。資正は、名将として知られた義父とともに、滅亡の危機に瀕した主家を支えたはずである。
敵は、北条氏の北進拠点であった、河越城(川越城)。
武州松山城を訪ねる時は、この城が対峙した敵方・河越城の方向を望みたい。青年期の資正も、同じ眺めを見ていたはずである。
2.川越城址、東明寺(埼玉県川越市)
運命の一戦、天文15年(1546年)4月の河越合戦の舞台。
北条氏に圧されて劣勢だった旧権威・両上杉氏(山内上杉氏、扇谷上杉氏)が、逆転を期して行った河越城(川越城)の大包囲は、北条氏の反撃で瓦解。
混戦の中で主家が滅亡、名将と謳われた資正の義父・難波田善銀も横死する。(難波田善銀は東明寺の井戸に落ちて死んだとの逸話あり)
全てを失った資正は、盟友・横瀬成繁を頼り、北へ逃れる。
川越・東明寺を訪ねる際は、周囲の地形に注意を払いたい。資正の義父・難波田善銀最期の地として、また河越合戦の最激戦地として伝えられるこの寺は、川越台地を下った先、しかも目の前に川が流れる地形に位置している。
河越合戦で敗れた両上杉勢は、川越台地を転げ落ちるように逃げ、そして川を越えるべく失速するこの地で、北条氏の追撃を受けたのだろう。
東明寺が、河越合戦の最激戦地のなり、その慰霊碑が今日も残るその訳は、地形の必然だったのである。
3.新田金山城(群馬県太田市)
新田金山城は、資正の盟友・横瀬成繁(後に由良成繁を名乗る)の居城。独立峰をまるごと要塞化した雄大な城であり、難攻不落を誇った。
河越合戦の敗戦後、横瀬成繁を頼った資正は、
一時、この名城に逃れたのではないか。
この城を訪ねる際は、その難攻不落の威容を感じながら、敗走の末にようやく安堵の時間を迎えることのできた24歳の資正を想像してみたい。
資正は、横瀬氏領国の高林に蟄居。
反転攻勢の機会を伺う。
4.武州松山城址(埼玉県吉見町)※2度目
天文15年(1546年)9月。
資正は再起し、武州松山城を急襲。
北条氏に占拠されていた義父の城を奪還する。
河越合戦の勝利で武蔵国全域を勢力下に入れたはずだった北条氏は、資正の反撃により、後代を強いられる。
南の河越城(埼玉県川越市)に北条氏、北の武州松山城(埼玉県吉見町)に上杉氏配下が入り対峙するかつての構図が、再現されたのである。
武州松山城を訪ねる際は、天文15年9月の奪還劇で、資正がどのようにしてこの城を奪ったのかを想像しながら歩いてみたい。
5.岩槻城址(埼玉県さいたま市)
天文16年(1547年)12月。
北条氏側に寝返っていた兄・資顕の病死を知った資正は、武州松山城を配下に任せ、主君不在の岩付城(岩槻城、埼玉県さいたま市)に打ち入る。
西は武州松山城、東は岩付城に至る広大な地域を支配下に入れた資正は、北条氏の勢力圏を河越合戦以前の状態に戻したことになる。
しかし、事態を重く見た北条氏康は、即座に対応。資正が留守にして武州松山城を調略できて落とし、資正が入ったばかりの岩付城を包囲する。
資正は、1ヶ月強の籠城戦にたえるも、翌天文17年(1548年)1月に降服。北条氏は、服属を条件に、資正の岩付領継承を認める。
資正はこの時26歳。
以降約10年間、資正は北条氏に服属することになる。
岩付城址を訪ねる際は、資正がこの城にどのように打ち入りを行ったのか、北条氏とどのような籠城戦を戦ったのかを想像したい。
今日の岩槻城址は、資正時代にはまだ城塞化されていなかった「鍛治曲輪」「新曲輪」が公園として整備されたもの。
資正時代にも、これらの天然地形が攻城・籠城に使用された可能性はもちろんある。しかし、より重要となったのは、街道と岩付城が交わる加倉口、大手門の周辺ではないか。
公園化されていないこれら地点だが、岩槻城絵図を片手に歩けば、その地形は今も残されていることがわかる。
続く・・・のつもり(笑)。
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その2、書きました。