根拠は無いのですが、関東一円を眼下に見下ろす筑波山は、戦国武将・太田三楽斎(太田資正)の後半生に大きな影響を与えたのではないか。
最近、そんな妄想が浮かぶようになってきました。
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太田三楽斎と筑波山の出会いは、永禄九年(1566年)。
我が子に裏切られ、故国・岩付(埼玉県さいたま市岩槻区)を追われた太田三楽は、この年、佐竹義重に受け入れられ、筑波山の東麓にある片野という土地に入ります。
この時、三楽斎は44歳です。
しかし、筑波山の麓に入った太田三楽ですが、物見遊山でこの霊峰を登ることはできなかったはずです。それは、筑波山の西麓に居を構える古豪の戦国領主・小田氏治の存在があったため。
北常陸を拠点とする佐竹義重と、南常陸の小田氏治は、ともに鎌倉時代に遡る名門であり、戦国時代には常陸国の覇権をかけて対立する関係にありました。
故国を追われて放浪のまま、頼る先もなく窮していた太田三楽に、佐竹義重が片野の地を与えたのは、三楽をして宿敵・小田氏治を抑える策だったはず。古からの定説です。
おそらく片野は、名目上は佐竹氏の領国とされたものの、筑波山の反対側の大領主・小田氏の牽制を受け、実質的には佐竹氏の統治は果たされていなかったのでしょう。そうでなければ、家臣の抵抗なく、義重が太田三楽に片野を与えることはできなかったはずです。
果たして永禄九年に片野に入った太田三楽は、その後しばらく、筑波山の反対側の小田氏治と対峙し、抗争を展開することになります。
この時、両者の境目に位置し、その頂からは双方の領国をやすやすと見下ろせたであろう筑波山は、霊峰故に戦場となることはなかったにせよ、少なくとも偵察戦の舞台となったはず。
戦いの当事者であった太田三楽が、物見遊山で訪れることが叶う場所ではありません。
しかし、ある段階で、太田三楽は、筑波山を登り、その頂から関東を見下ろしたのではないかと、私は空想します。
そして、それは、永禄十二年(1569年)であったはずだと、半ば確信しています。
永禄十二年は、太田三楽が息子・梶原政景(三楽を裏切ったのは嫡男・氏資、次男の政景は父と苦難をともにしました)とともに、小田氏治を打ち破った年だからです。
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永禄十二年(1569年)。
太田三楽が、片野に入ってから三年後のこの年、小田氏治は、邪魔な三楽親子を排除すべく、大軍を率いて片野を攻めます。
小田氏治の総攻撃に窮した三楽親子でしたが、天啓を得て、逆に筑波山を越えて小田氏治の居城を攻める奇襲に出ます。そして、そのまま大勝利をものにしたのです。(手這坂の合戦)
鎌倉時代から続く地域の大領主・小田氏は、この敗北により居城・小田城を失い、その後奪還を果たすことは叶いませんでした。
一方の太田三楽親子は、実力で小田氏を排除し、筑波山の東麓から西麓に至る全域を支配下に治めることになりました。
永禄七年の岩付(岩槻)追放から五年。
太田三楽は、久しぶりに、安定的に支配できる領国を得たのです。
私が、太田三楽が筑波山に登ったと空想するのは、この永禄十二年の手這坂の合戦の後です。
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小田氏治から奪った大城である小田城に、息子・梶原政景を入れ、一応の戦後処理を済ませた三楽。彼は、小田城の城主となる栄誉を若き息子に譲り、自らは再び、小城である片野城に戻ります。
この際に三楽は、今や自分の勢力圏に入った霊峰筑波山に寄り、その頂から登る眺めを楽しんだのではないかと、私は想像します。
遂に己の勢力圏を確立したことを実感すべく、それまで抗争地であった筑波山を登る太田三楽。勝者だからこそ叶う悠々たる物見遊山です。
安堵と充実を感じていた彼は、筑波山の頂で、関東一円を見下ろすその絶景を目にします。
関東中を眼下に見下ろし、はるか彼方に富士の姿を見たであろう、この時47歳となっていた知将は、感じたはずです。
己の人生はこれからだ、と。
岩付領主・太田美濃守資正ではなく、片野の太田三楽斎としての人生は、いまここから始まるのだと。
関東の片田舎に流れた身と思っていた昨日までと違い、今の己は坂東のすべてを見下ろしている。
己はここから、天下を動かすのだ・・・。
関東では、姿美しき霊峰と言えば、西の富士に、東の筑波山。
その富士の麓の駿東郡は宿敵・北条氏の発祥の地です。
そして、その富士を遠くに西に望む東の霊峰の頂に立つ己。
三楽は、小身の己であっても、天下の大大名・北条氏を向こうに回して戦う気迫を再度己の内に感じたのではないでしょうか。
そして、同時に、全関東を俯瞰する筑波山の眺めは、太田三楽に、北条氏との新しい戦い方の着想を授けたようにも思えます。
死力を振り絞って真正面からぶつかった、雄壮なる岩付(岩槻)領主時代とは異なる、新しい北条氏との戦い方。
筑波山の頂からの展望は、もっと大きく、雄大な構想を、三楽斎に想起させたのではないでしょうか。
・佐竹氏を中核とした反北条の軍事同盟、東方之衆の形成、
・以前から結んでいた越後の上杉謙信や房総の里見氏だけでなく、かつては敵対した甲斐武田氏をも巻き込んだ北条氏包囲網の構築、
(参考:天正六年の外交革命)
・西で着々と天下人への道を歩んでいた織田信長や、その後継者、羽柴秀吉と結んで北条氏を圧迫する遠交近攻
(参考:『武田氏滅亡』に至る外交戦の流れ)
遠く上方にまでその名が聞こえた、外交の名手「片野の三楽斎」の活躍は、永禄十二年以降から本格化することになります。
太田資正の「片野の三楽斎」としての後半生は、筑波山の頂から始まったに違いないのです。
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・・・なんてね。
実は私、筑波山を登ったことがありません(笑)。
いつか、息子と一緒に登り、山頂から太田三楽気分で関東平野を見下ろしたいと思っています。