先日書いた「自転車で岩槻駅から大宮駅へ」という投稿に、少し追記しました。

追記しつつ気になったのは、県道2号線と綾瀬川が交差する付近の地名、「宮ヶ谷搭」。

旧大宮市側の地名であるため、私のバイブル『岩槻市史』(1986年)には、その由来等は書かれていません。

「宮ヶ谷搭」は、綾瀬川の西岸側の台地東端の知名。

もしもその名の通り、そこに「搭」があったなら、それはかつて綾瀬川流域に広がっていた大沼(見沼)を越えて、西(即ち大宮、川越方面)の異変を東の岩槻城に伝達するための“通信”の機能を担う施設だったのではないか?

より西側の芝川流域に広がっていた大沼を、その西岸の寿能城と東岸の伊達氏館が狼煙などで“通信”していたと仮定するならば、「宮ヶ谷搭」も同じ役割を果たしていたように思えます。

「宮ヶ谷搭」という地名の由来は何なのか。
本当にそこには「搭」があったのか?

いずれ、旧大宮市が編纂した『大宮市史』を参照して調べたいと思います。

【追記】
Wikipedia様で調べたところ・・・

鎮守であった氷川神社(宮)と、谷戸があったことから「宮ヶ谷戸」と呼ばれ、その表記が変化

とのこと。

「搭」ではありませんでした。
残念!

それにしても、綾瀬川を挟んで東の岩槻支台は、完全に久伊豆神社勢力圏なのに、綾瀬川の西岸は大宮から続く氷川神社勢力圏、という区分が実に明確ですね。

面白いなぁと思います。