初めて訪ねた、小田城趾。
鎌倉時代から戦国時代までこの地を治めた名族・小田氏の本拠地として有名ですが、実は、太田資正の次男・梶原政景が城主だった時代もありました。

永禄12年(1569年)の「手這坂合戦」でこの城を落とした梶原政景は、佐竹氏から小田城の城主となることを許され、以来は、この城に居して北条氏と向き合ったのです。

当時の関東地方における二大勢力と言えば、南方の北条氏と、常陸佐竹氏を中核とする北関東勢。この二大勢力がその総力を傾けて対峙した天正12年(1584年)の沼尻合戦の時も、小田城の城主は、梶原政景でした。

沼尻合戦の際、梶原政景は合戦の舞台である沼尻には向かわず小田城に残って留守を守ります。
北条氏の勢力範囲に最も肉薄した地である小田城。武勇名高い梶原政景がこの地を守ったからこそ、佐竹氏は総力を上げて下野国沼尻に向かうことが可能だったのでしょう。
しかし梶原政景は、父太田資正と佐竹氏を裏切ります。政景の裏切りよって佐竹氏は腰を据えて沼尻で戦うことができなくなり、沼尻合戦は、事実上北条氏の勝利で幕を閉じることになります。

梶原政景は、なぜ父と主君を裏切ったのか。

この城で裏切りの決断を下した時の梶原政景を想った時、ふいに幻想が浮かびました。

“そなたほどの男の人生がこのままでよいのか”と囁く影。
振り払おうとしつつ、次第に飲み込まれていく梶原政景。

この幻想は、いずれ文章にしようと思います。

【追記】
文章にしました。→http://ameblo.jp/hamikara/entry-12272645733.html

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