さいたま市の戦国の名将・太田資正(三楽斎)。その墓所は、彼が後半生を過ごした常陸国は片野、今の茨城県石岡市にあります。
しかし、全国の資正ファンが訪れるこの聖地は、岩槻からそれなりに距離があり、子どもが喜ぶような観光地ではありません。息子の常にペアで行動する一人親には、少しばかり訪問しにくい場所でした。
ところが今日は、息子は不在。
昨日からお友だちの家でお泊まりし、迎えは15時の約束です。
こんなチャンスはなかなかありません。
行くなら今日!と思い、遂に、念願の太田資正の墓所を訪ねたのでした。
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「太田資正 墓」では、さすがのGoogleマップ様も答えは「該当無し」。
仕方なく、資正墓所の隣に丘にある「片野城址」を検索し、クルマで向かってみました。
たどり着いた場所は、急峻な丘の上の平地の農道。
農作業中の方に、農道にクルマを停めて城跡を見ていいか相談すると、丘の裏側に少し広い場所があって、城址の石碑もあるからそっちがいいよ、と教えてくれました。
ありがとうございます。
丘の裏側に行くとありました。
片野城址の石碑と説明板。
説明板には、太田資正、梶原政景親子のこともしっかり書かれていて満足。
改めて地形を見ると、石碑がある丘は本曲輪(本丸)で、周囲の丘も別の曲輪のようです。
さて、某ブログ情報では、隣の丘に資正の墓があるとのことですが、さてどれだ。
もう一度、当該ブログを見ると、墓所のある寺の名前がしっかり書かれていました。
「浄瑠璃光寺」です。
我ながら、事前調査のあまさにあきれます。
Googleマップ様に尋ねると、余裕で場所を示してくれました。
クルマで行ってもいいのですが、せっかくなので地形を感じてみようと思い、自転車を出して坂道を下ってみました。
↓は、クルマを停めた場所から自転車で下った道。彼方に筑波山が望めます。
自転車で片野城址の丘を下り、今度は浄瑠璃光寺のある丘を登りま・・・したかが、すぐに後悔。
とにかく坂道の傾斜が半端じゃないのです。昨日の空手とサイクリングの疲れもあり、途中でギブアップ(笑)。
最後は自転車から降りて、手で押して登りました。なさけなやー。
↓ようやく着いた浄瑠璃光寺。
墓地を散歩していると、すみに見えてきました。
太田資正の墓所です。
石碑の裏を見ると、子孫の方が建てたもののようです。
「片野の三楽」として天下に名を轟かせた知将の墓所が、こんなひっそりとした場所に静かに鎮座している。それを見て、淋しさを覚える方もいらっしゃるかもしれません。
しかし私は、後半生の資正の心意気が伝わってくるような気がしました。
太田資正(三楽斎)は、この関東の片田舎の丘にあって天下の大大名らと通交し、宿敵北条氏を倒すべく何度も大掛かりな包囲網を構築しのけたのです。
なんという痛快。
なんという豪気とそれを叶えた智と手腕。
そう思った瞬間、私の内にも気と力がわき上がる思いがしました。
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↓浄瑠璃光寺の丘を下ります。すごい傾斜です。下りるのはオーケーですが、二度と自転車で登りたくありません。
↓下り切ってから、浄瑠璃光寺のある丘を裏側からパシャリ。この丘も、片野城の本曲輪を守る曲輪だったのでしょうね。
これで、片野城址と太田資正墓所の探訪は終了です。
しかし、ここまで来るともう一ヶ所、気になる場所があります。
永禄十二年の「手這坂の合戦」の際、小田氏治の大軍は、太田資正親子のいる片野城を攻撃。窮地に陥った資正親子は、息子・梶原政景が逆に小田氏治の本拠地・小田城を急襲するという策を打ち、見事成功させたと言います。
鎌倉時代からこの地で隆盛を誇った小田氏は、これにより本拠地を失い、衰えていきます。
さてこの小田城。筑波山の峰々の東にある片野城に対して、西側にあります。
片野城から小田城を襲う奇襲の一手。
梶原政景の気分で、片野城から小田城までドライブしてみたくなりました。
そんなわけで、筑波山越えルートで、小田城も目指してみました。↓
たどり着いた小田城趾で私が見たのは、天正12年の梶原政景の“幻想”でした。