今日の昼から息子はお友だちの家へお泊まりに。ひとりになった私は、都内に出て無想会稽古へ。

ひとりの気軽さで、ふと試みに岩槻駅から大宮駅まで自転車で走ってみました。

距離にして10キロ。
通勤自転車で、自然体で走って、45分でした。

岩槻駅から大宮駅への道(ほぼ県道2号線)は、大宮台地のいくつかの支台を越えていくルート。大きなダウン→アップが二回あります。一回目が綾瀬川が作った谷、二回目が芝川が作った谷です。

この地形はクルマでも十分体感できますが、自転車だとよりヒューマンスケールでこれを感じることができます。

ふと思いました。
この通勤自転車の走行スピードって、当時の騎馬武者の最大移動速度とあまり変わらないのでは?

だとすると、岩槻城と中仙道の氷川神社って、とても近かった?

いやいや、当時は舗装道を自転車で気持ちよく走れた訳ではなく、支台と支台の間の谷間は沼だったはず。

陸上移動は大変だったはずですよね。

そんなことを考えていると、岩槻太田氏の支城であった寿能城と、太田氏家臣の伊達氏館が芝川を挟んで向き合っていたのも理解できる気がします。

戦国時代は、寿能城と伊達氏館よ間の谷間は、巨大な沼(見沼)。徒歩や馬では往き来できません。船で往来した可能性もありますが、芦が生い茂っていたであろう当時の大沼を、船がどれだけスムースに移動できたか。

ならば、両城は互いに、狼煙(のろし)等で緊急時の連絡を取っていたのでしょう。

恐らくは、昔からあったであろう伊達氏館。そして、太田資正が北条氏と火花散る大抗争を演じていた永禄年間に築城されたと伝えられる寿能城。

寿能城から伊達氏館を結んだ線を更に伸ばしたところに、太田資正の居城・岩槻城があったことを思うと、寿能城は、太田資正が西(川越)や南(江戸)の北条氏勢力の動向をいち早く把握し、岩槻に伝えるための“通信”のための城だったのだろうと思えてきます。

北条氏の動きを察知した寿能城は、今日の芝川の流域にあたる大沼を越えて狼煙でそれを伊達氏館に伝える。伊達氏はそれをまた岩槻城に伝達する。
伊達氏館から岩槻城までは、今日の綾瀬川の流域にあたる大沼がありますが、そこもやはり狼煙で越えて情報を伝えたのではないでしょうか?

綾瀬川と今日の県道2号線が交わる付近の地名は、「宮ヶ谷搭」。なにやら“通信”のための“搭”が立っていたかのような地名です。

例によって、妄想ですが。

・・・

あれ?

自転車で走ったこととあまり関係の無い妄想考察になってしまいました(笑)。