昨日、「続・日本100名城」入りを祝して、杉山城を歩いてみました。

 

評判に違わぬ、素晴らしい「土の城」。楽しめました。

 

搦手側の案内板の説明にあった、鉢形城(北条氏邦)と松山城(北条氏配下の上田朝直)をつなぐ城、との説明にも納得。

 

帰宅後、杉山城の地形を、地理院地図で確かめてみました。

 

 

 

 

むむむ・・・

 

この杉山城は、古くから、

  • 南→北に勢力を広げる北条氏側の城
  • その北条氏を北から迎え撃つ山内上杉氏側の城

という2説があり、前者は縄張り研究家(西股総生氏ら)によって支持され、後者は城の出土品の年代比定を行った考古学者らによって支持されてきた、という経緯があります。(いわゆる「杉山城問題」)

 

 

 

西股総生氏の本で杉山城を学んだ私は、戦略的・戦術的に杉山城を見れば前者という解説を読み、きっとそうなのだろうと思っていたのですが、地形図を見ると、ちょっと異なる印象を受けます。

 

杉山城は、武州松山城と一緒に比企丘陵&吉見丘陵を要塞化し、南からの攻めを迎え撃つ城、に見えなくもないのです。両城とも、これら丘陵の南端にありますし、南の敵に対峙する城と考えると、市野川がまさに天然の堀となりますから。

 

武州松山城が、かつては山内上杉氏の“舎弟”たる扇谷上杉氏の居城として、北条氏の北進を食い止める城だった(天文年間(河越合戦まで)、永禄四年〜六年)ことを思うと、なおさらに・・・

 

杉山城の縄張りは先進的で、北条氏の城の後期のものとされますが、その原型は、扇谷上杉氏や山内上杉氏によって築かれたと考えた方が、自然に思えてきました。

 

もともとは、山内上杉か扇谷上杉の城で、後に北条氏も縄張りをやり直して再利用した城だったのでは? そう考えれば、同城の本曲輪付近で山内上杉氏時代の遺物が出てきたことも頷けますし、地形的には北から南に対峙する城、縄張り的には北条氏の様式、という関係も説明がつきます。

 

素人考察ですが。