この動画で示される、相手の指を極めて崩す技法。これも、剛柔流空手の先生に教えてもらったことがあります。
特に動画の二つ目の技は、
「大きな外国人が握手で力の差を見せつけようとしてきた時に、『ふざけた真似をするんじゃないよ』と使う小技」、
と飲みの場で説明してもらったものと完全に同じです。
それらが剛柔流空手一般の技術かはわかりませんが、中国武術に同じものがあるのは、興味深いと思いました。
一方で、単に私が知らないだけかもしれませんが、首里手には、この手の技術(ー言ってみれば、お互いが礼を示す友好的な場面の裏側での“マウンティング技術”)は、あまり無いように思います。
新垣師範によれば、首里手が想定しているのは、自分を殺うと覚悟を決め既にその動作に入った相手への対処。ならば、こうした技法を使うシーンは武を使う場に含まれてはいないのでしょう。
(中国武術や剛柔流空手がそういう場合を想定していない、という議論では全くありせん。どうかそこは誤解無きよう。)
加えて、門派を率いて他派と友好的に交流しつつ、友好ムードの中で相互にマウンティングし合う場面(=この動画の技法が活躍する場合)が、首里手を学ぶ士族には無かったためではないか、という気もします。
互いに、王のために武を振るう士族同士。
同じ共同体に属する仲間の内で「ナイファンチは※※に習え」「@@にパッサイを習いに行くといい」となった首里士族の間には、流派間の交流(友好的ながら裏では密かな競り合いあり)というシーンは無かったのではないでしょうか。
そういう部分での環境の違いも、この手の技法の発展に影響を与えているように思います。
(首里手も、門派・流派があって友好的ながら競い合う環境があれば、歴史の中でこの種の技法が育ったかも?と思ってみたり)
特に動画の二つ目の技は、
「大きな外国人が握手で力の差を見せつけようとしてきた時に、『ふざけた真似をするんじゃないよ』と使う小技」、
と飲みの場で説明してもらったものと完全に同じです。
それらが剛柔流空手一般の技術かはわかりませんが、中国武術に同じものがあるのは、興味深いと思いました。
一方で、単に私が知らないだけかもしれませんが、首里手には、この手の技術(ー言ってみれば、お互いが礼を示す友好的な場面の裏側での“マウンティング技術”)は、あまり無いように思います。
新垣師範によれば、首里手が想定しているのは、自分を殺うと覚悟を決め既にその動作に入った相手への対処。ならば、こうした技法を使うシーンは武を使う場に含まれてはいないのでしょう。
(中国武術や剛柔流空手がそういう場合を想定していない、という議論では全くありせん。どうかそこは誤解無きよう。)
加えて、門派を率いて他派と友好的に交流しつつ、友好ムードの中で相互にマウンティングし合う場面(=この動画の技法が活躍する場合)が、首里手を学ぶ士族には無かったためではないか、という気もします。
互いに、王のために武を振るう士族同士。
同じ共同体に属する仲間の内で「ナイファンチは※※に習え」「@@にパッサイを習いに行くといい」となった首里士族の間には、流派間の交流(友好的ながら裏では密かな競り合いあり)というシーンは無かったのではないでしょうか。
そういう部分での環境の違いも、この手の技法の発展に影響を与えているように思います。
(首里手も、門派・流派があって友好的ながら競い合う環境があれば、歴史の中でこの種の技法が育ったかも?と思ってみたり)