妻とともに汗を流した古巣のフルコンタクト空手道場が、新しい挑戦を始めています

フルコンタクト空手だけでなく、本土伝統空手を取り込み、型試合や組手試合に参戦していく。
そのための準備をスタートさせ、50歳の師範その人が、本土伝統空手の友好道場(松濤館系)に稽古に行き、組手と型を学んでいるのです。

若手の伝統派経験者の黒帯に指導させるのではなく、フルコンタクト空手一筋で稽古暦30年の師範が、自ら他流の空手を学ぶ姿に、深く感じるものがあります。

師範の熱意を考えれば、古巣道場は、近そう遠くない未来、フルコンタクト空手の組手と、本土伝統空手の組手をどちらも学べる道場になることでしょう。

フルコン空手と伝統空手には、それぞれに良いところがあります。遠くから速く見えない動きで当てる打撃と、その打撃の交錯の中での投げは本土伝統空手の華。効かせる打撃と流れるようなその連打、そしてそれに耐える強固な肉体はフルコン空手の賜物。

両者を垣根なく学べる道場の存在は、空手修行者にとって悦ばしいものとなるはずです。

師範には、ぜひそれを実現してほしいと思います。



道場主の師範は、かつて大手フルコンタクト空手の全国大会で戦績を残した方。その後独立し、抜群のフルコン空手の力量に、明るく親しみやすい人柄、そして独特のマーケティングセンスで道場経営を成功させてきました。
(元門下生の癖に偉そうな評ですが(笑))

私自身、師範がつくった明るく楽しい、そしてやるときは厳しくやる道場の雰囲気が好きで、長くお世話になりました。
妻と出会ったのも、この道場でした。

しかし、黒帯をいただく少し前から沖縄空手や本土伝統空手の組手技術に興味を持ち始めた私は、フルコンタクト空手一筋の道場に少し物足りなさを感じることも。

当時、独自に研究していた本土伝統空手の「高速上段突き」の動作を稽古前後に道場の隅でやっていると、師範から「指導的な立場にいる者がそうことはしないように」と注意を受けたこともありました。

道場運営上、師範の注意は当然でもありましたが、やはり少し寂しくもありました。

2007年頃の話です。

そんな過去もあったので、師範自身が、本土伝統空手を真剣に学び始めたことに、隔世の感があり、感じるものがあるのです。



古巣フルコン道場の本土伝統空手への急接近。

少し前の私であれば、とても興味を持ち、復帰を真剣に考えたろうと思います。

興味を持っていた伝統空手の型や組手技術を、フルコン空手をやめることなく稽古できる。それはとても魅力的です。

しかし、今の私は、またちょっと違うところに来てしまったので、(100%否定はしませんが)古巣に復帰することは無さそうです。

理由は、
①やはりさいたま市から通うのは遠い
②フルコン空手の回し蹴りが、ヘルニア持ちには辛い
③息子と糸東流空手、自分は沖縄空手無想会を始めてしまったので、松濤館系の友好道場から古巣が移入する伝統空手とは、技術的な断絶が小さくない
の三つ。

①と②は切実な問題ですが、技術面での③の問題も小さくありません。

糸東流は、立ち方があまりに松濤館とは違います。両者を同時に学ぶのは無理があります。

そして、もうひとつが、無想会との技術的な相違の大きさです。
実は松濤館は、一部の立ち方については糸東流よりも無想会に近いのですが、無想会が否定する腰の回転や正中線の敵に晒す構えについては、どの流派よりも叩き込んで教え込むところがあると感じます。

これらの癖をやっと少し矯正できてきた私が、息子との糸東流空手に加えて松濤館系の稽古もしたら、また元の身体意識、身体操作に戻ってしまいます。

これは避けたいところです。

もちろん、本土伝統空手のあのルールの自由組手は無想会で学んだものを試す場として魅力的です。しかもそれを、フルコン癖のあるメンバーと切磋琢磨して学んでいえるのはありがたいこと。

しかし、そうであっても、せめて無想会の身体操作をもっと身につけてから、その活用の場を求めるくらいになってからでないと、早すぎる、でしょうね。



ということで、今の私は直接お世話になることは無さそうですが、フルコン者がフルコン空手の道場に通いながら本土伝統空手も学べるようになることには、大賛成の私です。

古巣道場の師範の挑戦を、外からですが、応援したいという思います。

そして、似た取り組みを行うフルコン道場が、もっと増えていくことを期待したいと思います。

古巣師範の決断の裏には、「空手が五輪競技になったが、それはフルコンではなく伝統空手だった。これからは五輪と繋がる伝統空手の競技に対応せねば人材が集まらなくなる」といつ計算があったろうと思います。必ずしも伝統空手に対するリスペクト故の決断ではなかったかもしれません。

しかし、動機はどうあれ、フルコン者がフルコン空手には無い要素を持つ本土伝統空手に触れやすくやっていくこと。その変化を、私は望ましいものだと思います。