年末年始の旅は、まず、駿河国駿東に位置する妻の実家に二泊。

妻の妹さん二人が子ども達を連れてくれたので、従兄弟6人が勢揃い。ゲームをしたり、ドンジャラをしたり、賑やかな2日間でした。



今日は移動日。
駿河国駿東から関東に戻り、関東平野を斜めに突っ切り、私の実家である下野国は鹿沼に向かいます。

ルートは、東名高速→圏央道→東北道。
この時期の東名高速は「上り」は混みません。圏央道も渋滞しない道なので心配は「下り」となる東北道。

この東北道の渋滞にはまらないよう、朝5時過ぎに妻の実家を出ることにしました。

こんな早い時間なのに、義父母や妻の妹さん、甥達も起きてくれて、皆で見送ってくれました。



考えてみれば、駿河国駿東は、戦国時代の関東の覇者・後北条氏の旗揚げの地(の近く)。そして下野国鹿沼は、後北条氏が最大版図を得た五代目氏直時代に、下野国における勢力範囲の最北端。下野国最大の反北条勢力・宇都宮氏と北条氏が、熾烈な争奪戦を繰り広げられたのが鹿沼城でした。

そう考えれば、駿河国駿東から下野国鹿沼に至る今日のドライブは、後北条氏の五代百年の歴史をたどる旅と言えるかもしれません。



(1)
箱根の山々をトンネルでくぐって海老名へ。海の気配を濃厚に感じる厚木PAで休憩すると、北条氏の本拠地として栄える小田原の気配をも感じることができます。

(2)
海老名ジャンクションから圏央道へ。
北進する圏央道がまず通るのは、戦上手で知られた北条氏照の居城・八王子城。

しかし氏照は、北関東制圧の司令官のようなポジションにいた人物。関宿攻めや小山・宇都宮攻めに転戦し、この城にいた期間は長くなかったはずです。
氏照の戦場は、圏央道と東北道の先にあったのです。


(3)
さらに北に進むと、上杉謙信と北条氏との抗争の中で、最初に滅ぼされた謙信味方衆の三田氏の領地・勝沼(青梅)。

氏照の領国と隣接した三田氏は、激しく攻められたことでしょう。

(4)
圏央道が道筋を曲げ、北東に進む日高市周辺は、南関東最大の反北条勢力・太田資正と北条氏が矛を交え始めた地。この地で始まった両者の衝突は、やがて武州松山城での激突へと繋がっていきます。

(5)
圏央道が東に進む川島町や北本市の付近は、太田資正の領国。特に川島町は、太田氏の菩提寺・養竹院もあり、同氏にとって縁の深い地です。
この辺りはしばらく太田資正の領国が続きます。上杉謙信の片腕・太田資正が、北条氏の領国を封する存在であったことを実感できます。

(6)
久喜から東北道へ。
加須は、太田資正が守った要所・武州松山城が陥落した後、上杉謙信が腹いせで攻め落とした騎西城がある土地です。

(7)
東北道をさらに北に進めば羽生。
関東の片腕・太田資正を失った上杉謙信が頼りにした木戸氏が治めた地。木戸氏が利根川水運の要所・羽生を押さえ続けたことで、謙信は辛うじて関東での勢力を保ちます。

(8)
館林は、武州松山城合戦への救援に「間に合わなかった」謙信がしばし滞在した場所。

(9)
東北道を進み、道が山々に踏み入り始めるのが、名城・唐沢山城で知られる佐野。
この地を統べた佐野氏は、ある時は北条側、またある時は謙信側につき、戦国乱世を生き残ります。

(10)
再び東北道は平野へ。
栃木IC付近は、天正年間に北条氏につく道を選んだ皆川氏の領国。皆川氏が北条側についたことで、北条氏の宇都宮氏攻めは大きく前進することになります。

(11)
そして鹿沼ICで降ります。
この地を統治した壬生氏もやはり、天正年間に、宇都宮氏を見限り、北条氏につきます。
宇都宮城の目と鼻の先の鹿沼城が北条側についたことで、宇都宮氏は恐慌をきたし、その殲滅に死力を尽くすことになります。
常陸の佐竹氏に援軍を頼み、鹿沼城を攻めに攻めた宇都宮氏。しかし、鹿沼城は陥落せず、もはや北条氏の北進を食い止めるのは、天下人・豊臣秀吉の小田原征伐しかない。

北条氏の関東制覇は、まさに指股の間に近づいたのでした・・・。



その三年後、駿河国駿東から関東の大半を領有するに至った北条氏は、天下人・豊臣秀吉の軍勢にその駿東を制され、本拠地小田原城を包囲されることになります。

海の香りのする駿東に始まった北条氏は、内陸の山国である下野国鹿沼までその支配下に納めながら、最後は始まりの地である駿東から攻められ、滅びていきます。

海から遠く離れた下野国鹿沼。
北条氏勢力範囲の最北端のこの地で、同氏の滅亡に想いを馳せる時、再び出発地の駿河国駿東の風景を想うのは、なんとも皮肉です。

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