本部朝基の「八文字型」ナイファンチの謎』を書いたのを契機、数年ぶりに各種空手古書(の復刻版)を読んでいます。

読みながら思ったことを書き残しておこうと思います。

まずは、船越義珍(発刊時点では富名腰義珍)の『琉球拳法唐手』(大正11年)。

本土に初めて空手を伝えた記念すべき著書です。


(1)船越義珍のナイファンチ

糸洲安恒にも師事したとされる船越義珍ですが、『琉球拳法唐手』(大正11年)で紹介したナイファンチ立ちは、本部朝基が「誤伝」と糾弾した“糸洲流”のそれではありませんでした。
(→『本部朝基の「八文字型」ナイファンチの謎』をご参照ください)

なぜ、糸洲安恒に学んだ船越義珍のナイファンチは、“糸洲流”のそれではなかったのか。

船越義珍は、
①糸洲安恒から“糸洲流”のナイファンチを習っていなかったのか、
②糸洲安恒から習った上で、もう一人の師である安里安恒のナイファンチを本土に伝えるべき型として選んだのか

①の場合は、さらに、
①ー1.船越義珍は糸洲安恒に師事していなかった(という説もあるのだそうです)。
①ー2.船越義珍は糸洲安恒に師事したが、糸洲安恒が自身のナイファンチを教えなかった。
と分解できます。

①ー2も、さらに、
①ー2ーA.船越義珍が師事した時代の糸洲安恒はまだナイファンチを改変していなかった
①ー2ーB.糸洲安恒は敢えて自身のナイファンチを船越義珍に教えなかった
と、分解されるでしょうか。

真相はわかりませんが、船越義珍が本土に伝えた空手が、那覇手の身体操作を取り込む前の首里手だった(可能性が高い)のは、興味深いと思います。


(2)船越義珍が重視した型

船越義珍が『琉球拳法唐手』で、取り分け詳しく紹介している型は、
・ピンアン初段
・ナイハンチ初段
・公相君
の3つ。

この3つの型だけ、全挙動イラスト付きで紹介されています。

船越義珍が、この3つ型を取り分け重視したことの現れと見てよいのではないでしょうか。

私のような浅学の者が言うのもおこがましいのですが、このセレクトは、素晴らしいと思います。


3.船越義珍の前蹴り

ピンアン初段や公相君で、船越義珍が披露する前蹴りは、足首が伸びていません。

現代の型は、上足底(中足)を当てるたてに足首を伸ばして蹴るものが多いと思いますが、それとは違ったんですね。

この船越義珍の蹴りは、すねの筋肉を操作する必要がありません。
膝から下を何も意識せずに、放り出すように蹴っていたのかな?と妄想。

この蹴り、速かったんじゃないかな・・・と思いました。

現在の松濤館流では、前蹴りではなく、横蹴りになってしまっています。