「脱力」は、あらゆる武道の要諦。
(いや、武道に限りませんね。体を動かして何らかのパフォーマンスを引き出す際には、必ず求められます)

しかし、「脱力だ!」と指導者がかける言葉は同じでも、その意味するところは、 そして脱力によって目指す身体操作は、武道によって異なると感じます。

自分の経験の範囲では、フルコンタクト空手と本土伝統空手は、脱力によって目指す境地が、明らかに違います。

フルコンタクト空手が脱力で目指すのは、淀み無い柔らかな足運びと、相手のハードな打撃を柔らかく流す受け。そして、連打を続けても疲れない打撃と、一本を狙う接近した距離からの上段回し蹴りの瞬撃。
それらを阻害する無駄な力みを消し去ることが、私の理解するフルコンタクト空手の脱力です。

特に、淀み無く歩み続けるフルコンタクト空手の足運びは、「速くないのに早い」動作と可能とする点に面白さがあります。
(相手のステップイン打撃を、スピーディーな送り足ステップワークでなく、滑らかな歩み足で距離を外してしまう場面を想像してください)

あの運足を極限まで突き詰めれば、やがて太極拳と変わらないものになるだろう・・・。そう、私は思います。
(無門会の富樫先生のユッタリズムとか)

常に等速度で滑らかに動いているだけに見えるのに、捉えられない。そんな足運びが、フルコンタクト空手の目指すひとつの境地であり、そのために「脱力」を心掛けるのがフルコンタクト空手なのだと、私は思います。


対して、本土伝統空手。
あくまでも私が習っている某派糸東流の指導の範囲ですが、脱力によって目指すのは、静から動、動から静への瞬時の切り替え。そしてそれによって近づくことが可能となる、中間動作が見えないくらいの刹那の打撃です。

柔らかく動き続けるフルコンタクト空手の運足とは、ある意味で真逆の世界。

本土伝統空手は、静の時はどこまでも静を極め、動となれば瞬時に動きます。
それを可能とするのが、待機時間の脱力。

足運びや手足の打撃動作の初動の一切に負荷を掛けない。そして、抵抗、抗力というものの存在を、意識の世界から吹き飛ばして、瞬間移動すら可能だとの体に信じこませる。

その突き詰めの先にあるのが、あの人間技とは思えない程の瞬速の打撃です。

それが、本土伝統空手の「脱力」の目指す境地だであり、それを得るために脱力するのが本土伝統空手なのだと私は思います。



書きながら思いました。

私は、フルコンタクト空手と本土伝統空手の対比で、「脱力」の目指す境地の違いを語りましたが、同じ関係が、沖縄空手の首里手と那覇手の間にも、成り立つのかもしれません。

また、新垣清先生の言葉を借りるならば、こうも言えるかもしれません。
・フルコンタクト空手は、「静歩行」を極めるために脱力し、
・本土伝統空手は、「動歩行」を極めるために脱力するのだ、
と。

フルコンタクト空手と本土伝統空手は、ともに「空手」というカテゴリに分類されますが、身体操作の核を見つめるならば、前者は太極拳に近く、後者は剣術に近いのでしょう。

フルコンタクト空手と太極拳の距離は、本土伝統空手との距離より近く、
また、本土伝統空手と剣術との距離は、フルコンタクト空手との距離より近い、
という気もします。

「脱力」によって何を目指すのか。
そこを突き詰めると、空手に限らず、また武道に限らず、その流儀の核となる価値観が浮かび上がるのかもしれません。