昨日、親子で糸東流空手教室に行き、基本稽古(その場基本)をやりながら、思ったことがありました。
フルコンタクト空手の基本稽古は、中心軸意識(川嶋祐師の言葉を借ります)とそれに基づく身体操作法の修得が稽古の目的であると言ってよいほど、中心軸回転をガッツリ行います。
対して糸東流(他の伝統派もおそらく同じ)の基本稽古には、そうした中心軸回転動作がありません。
新垣清先生の言葉を借りれば、「正中面」で体を左右に分割し、右手の突きを出す時は、左半身を「壁」とする身体操作を、最初の基本稽古から行っているのです。
西洋スポーツとは異なる東洋武術独特の身体操作が、入り口の基本稽古から徹底されているのは興味深いですし、やりがいがあると思いました。
思い出してみれば、子どもの頃に伝統空手を少しかじっていた私は、大学生になって初めてフルコンタクト空手の門をくぐった時、基本稽古で驚いたのでした。
「こんなに腰を回すの?!」と。
今回の驚きは、その逆バージョンですね。
※
さて、伝統空手の正中面による身体左右分割意識の基本稽古と、フルコンタクト空手の中心軸意識の基本稽古。
それぞれ長短があると思いました。
伝統空手の身体操作は、相手に読まれず、早く且つ速く突き蹴りを相手に届かせるもの。早い(速い)だけでなく、修練によって相当の威力も出ます。
しかし、その域に達するまでは、突きは腕の筋肉の伸縮だけで打つ“手打ち”になってしまう恐れがあります。特に子どもには、求められる身体操作の高度さ故に、力が何から生まれているかを体感しにくいように思えました。
(指導員も、身体操作を実演することはできても、言語化して説明している方はあまり多くないはずです)
一方のフルコンタクト空手の身体操作は、回転動作で加速をつけて突き蹴りを放つことを徹底するため、“手打ち”でなく体で突く(蹴る)動作を、早々に身に付けることが可能です。
力の源泉が回転中の加速であることは、子どもでも分かるため、中心軸動作に限っては、“脱力”しての発力も早い段階で修得できてしまいます。
(指導員も、「軸を作る稽古だ!」と基本稽古の意味を言語化できます。そうしている指導員はそれなりに多いという印象)
しかし、動作の基本が、徹頭徹尾、中心軸意識のものになってしまうため、そのままでは、“読まれない動作”や“神速の踏み込み”には全く近付けなくなります。組手ルールの特性との合わせ技で、それを探求しようという課題意識すら生まれなくなります。
(体が、回転する丸太、という意識になってしまい、正中面で左右分割して分けて使おう、と考えることが無くなってしまうんですよね・・・)
両者の長短は対照的であり、表裏の関係にあると思えました。
※
たった1日の稽古で何がわかる?
と言われそうですし、事実そうなのですが、気づいた点として書き記して置こうと思います。
ちなみに、息子には中心軸意識たっぷりの回し蹴りミット打ちを家でやらせていたので、
・基本稽古の時は、どうしていいか分からず混乱、
・ミット打ちの時は、中心軸回転で先輩小学生達に負けない動きを見せていた、
という様子でした。
フルコンタクト空手の基本稽古は、中心軸意識(川嶋祐師の言葉を借ります)とそれに基づく身体操作法の修得が稽古の目的であると言ってよいほど、中心軸回転をガッツリ行います。
対して糸東流(他の伝統派もおそらく同じ)の基本稽古には、そうした中心軸回転動作がありません。
新垣清先生の言葉を借りれば、「正中面」で体を左右に分割し、右手の突きを出す時は、左半身を「壁」とする身体操作を、最初の基本稽古から行っているのです。
西洋スポーツとは異なる東洋武術独特の身体操作が、入り口の基本稽古から徹底されているのは興味深いですし、やりがいがあると思いました。
思い出してみれば、子どもの頃に伝統空手を少しかじっていた私は、大学生になって初めてフルコンタクト空手の門をくぐった時、基本稽古で驚いたのでした。
「こんなに腰を回すの?!」と。
今回の驚きは、その逆バージョンですね。
※
さて、伝統空手の正中面による身体左右分割意識の基本稽古と、フルコンタクト空手の中心軸意識の基本稽古。
それぞれ長短があると思いました。
伝統空手の身体操作は、相手に読まれず、早く且つ速く突き蹴りを相手に届かせるもの。早い(速い)だけでなく、修練によって相当の威力も出ます。
しかし、その域に達するまでは、突きは腕の筋肉の伸縮だけで打つ“手打ち”になってしまう恐れがあります。特に子どもには、求められる身体操作の高度さ故に、力が何から生まれているかを体感しにくいように思えました。
(指導員も、身体操作を実演することはできても、言語化して説明している方はあまり多くないはずです)
一方のフルコンタクト空手の身体操作は、回転動作で加速をつけて突き蹴りを放つことを徹底するため、“手打ち”でなく体で突く(蹴る)動作を、早々に身に付けることが可能です。
力の源泉が回転中の加速であることは、子どもでも分かるため、中心軸動作に限っては、“脱力”しての発力も早い段階で修得できてしまいます。
(指導員も、「軸を作る稽古だ!」と基本稽古の意味を言語化できます。そうしている指導員はそれなりに多いという印象)
しかし、動作の基本が、徹頭徹尾、中心軸意識のものになってしまうため、そのままでは、“読まれない動作”や“神速の踏み込み”には全く近付けなくなります。組手ルールの特性との合わせ技で、それを探求しようという課題意識すら生まれなくなります。
(体が、回転する丸太、という意識になってしまい、正中面で左右分割して分けて使おう、と考えることが無くなってしまうんですよね・・・)
両者の長短は対照的であり、表裏の関係にあると思えました。
※
たった1日の稽古で何がわかる?
と言われそうですし、事実そうなのですが、気づいた点として書き記して置こうと思います。
ちなみに、息子には中心軸意識たっぷりの回し蹴りミット打ちを家でやらせていたので、
・基本稽古の時は、どうしていいか分からず混乱、
・ミット打ちの時は、中心軸回転で先輩小学生達に負けない動きを見せていた、
という様子でした。