八州にて要害堅固の由、聞こし召し及ばれ、しかるべき所より先ず責め干すべき

豊臣秀吉は、天正18年6月に、加藤清正に書簡を送り、関東での小田原征伐の顛末を伝えています。
その際、攻略したある北条氏支城のある城を、「関東八州において要害堅固の評判が高い。そういうところから先ず攻め落とすべき」と語っています。

この城こそ、埼玉県さいたま市の岩槻城。
戦国時代には、「岩付城」と呼ばれた城でした。

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岩槻城は、鎌倉から東北に向かう街道・奥大道と、元荒川(戦国時代までは荒川の本流)が交わる土地に築かれた城。
戦国時代後期には小田原北条氏の支配下に入り、同氏の北関東攻略の重要拠点として機能しました。そしてそれ故、豊臣秀吉の小田原征伐の際には、攻撃対象の一つとされた城でした。

岩槻城が攻撃されたのは、天正18年5月20日。
攻めたのは、
・豊臣秀吉配下の浅野長吉
・徳川家康配下の本多忠勝(「真田丸」で藤岡弘さんが演じている猛将です)
が率いている二万余の豊臣・徳川連合軍です。

岩槻城は、懸命の防衛を行いますが、攻撃開始の翌々日の5月22日に落城。
小田原城と同規模の「大構」(城を城下町ごと防御する巨大な土塁・堀)を築いて、防御力を高めたはずの岩槻城でしたが、豊臣・徳川連合軍の総攻撃の前には、あっけなく陥落したのでした。

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小田原北条氏の支城は、小説『のぼうの城』で有名になった忍城(埼玉県行田市)や、韮山城(静岡県伊豆の国市)を除けば、そのほとんどが無血開城。抵抗した城も、岩槻城と同様に数日で攻略されています。

岩槻民としては、岩槻城が、豊臣・徳川勢からどのように見られていたのか、気になるところでした。
今日はその答えを、久しぶりにめくってみた『岩槻市史 古代・中世史料編I 古文書史料(下)』に見つけることができました。

資料番号868。
天正18年6月7日に、豊臣秀吉が加藤清正に送った書状(印判状)には、こう記されています。

・・・次いで東八州の義、城々悉く相渡し候、その内、岩付・鉢形・八王子・忍・付(津久)井何れも命を相助けられ候ふ様にと、北条安房守(北条氏規)御陀言申し上げ候へども、聞こし召し入れられず、右の内武州岩付は、北条十郎(北条氏房)が城に候、八州にて要害堅固の由、聞こし召し及ばれ、しかるべき所より先ず責め干すべき旨仰せ遣はされ、即ち木村常陸介、浅野弾正少弼、山崎、岡本、家康が内本田(本多の誤り)、鳥井(鳥居の誤り)、平岩以下弐万余、岩付へ押し寄せ・・・
(カッコ内は、はみ唐による注記です)

北条一族の中でも親豊臣派だった北条氏規が、支城に対する助命を嘆願したものの、秀吉はこれを却下。要害堅固の評判の高い岩槻城のような城からまず攻め落とすべきだと言い、浅野長吉ら2万余の軍勢に攻めさせた。

たった三日で落ちた岩槻城でしたが、秀吉は北条側に心理的なプレッシャーをかけるためにも、堅城として名高いからこそ、この城の攻略に力を入れたことがわかります。

攻める側の浅野長吉も、プレッシャーだったでしょうね。
『北条記』には、岩槻城の誇る沼濠にはまった上方兵が、城内からの鉄砲によって撃たれ大損害を被ったこと、それでも多勢なので攻め手を緩めず沼濠を渡って本城攻めが行われたことが記されています。

大きな損害が出たならば、力攻めを一旦やめて作戦を立て直すのが普通。それが許されない雰囲気が、攻城側にはあったのでしょう。

豊臣勢を迎え撃つ難攻不落のはずの山中城(静岡県伊豆の国市)が、半日で落ちたことは、小田原城で籠城する北条勢を大きく動揺させたと言われます。
それと同様に、岩槻城のあっけない落城もまた、北条首脳層には衝撃を与えたのかもしれません。

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岩槻城が、こうした位置づけの城であったことは、今日あまり知られていないように思います。
(私も十分に知りませんでした)

城址公園の説明版にも、このくらいの背景説明はあってほしいですね。

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ちなみに秀吉は、後に自ら岩槻城を訪ね、有名な萩の花を鑑賞し、歌を詠んでいます。
→ 秀吉、岩付(岩槻)に遊ぶ
これも、さいたま市民、岩槻民に、ほとんど知られていない、岩槻城の歴史です。

【参考:岩槻城の大構】
岩槻城の絵図と現在に残る周辺の高低差から推測する、大構のラインを、地理院地図で描いてみました。
岩槻城の大構

岩槻城の大構