先週の土曜日、息子と加須に行く用事があり、帰りに騎西城(埼玉県加須市)に寄ってみました。

騎西城は、戦国時代に上杉謙信が攻めたことで、知られる城。

永禄五年から六年の武州松山城合戦に間に合わなかった謙信(※)は、自身の到着まで持ちこたえられなかった太田資正に怒りをぶつけた後、八つ当たりのようにこの騎西城を攻め落としています。

(※ 実際のところは、武州松山城を包囲する北条・武田連合軍5万との直接対決を避けたかった謙信が、意図的に間に合わせなかった疑惑も濃厚ですが。)

甲陽軍鑑」や「北条記」「上杉家御年譜」「関八州古戦録」などに書かれた、上杉謙信の騎西城攻めのその舞台を、歩いてみました。

※ ※ ※

騎西城駐車場にクルマを停めると、もう目の前が、鉄筋コンクリートの天守閣です。


(騎西城の天守閣)

説明板を読むと、上杉謙信の騎西城攻めのことが書かれてはいますが、一行だけで極めてあっさり。
江戸時代に書かれた戦国関東の軍記物には必ず出てくる名場面なのですから、もう少し詳しく書けばいいのに。


(説明板)

「お城の中に入りたい」と息子が言うので、入り口に向かってみると、施錠されていました。
イベントの時のみ内部に入れるようです。


(騎西城 天守閣)


天守閣の入り口付近に、もう一つの説明板が。
なになに、「かつてこの近くに騎西城があったことから、天主閣を持つ三階の建物として復元されましたが、史実では周囲に土塁や堀を廻らせた平屋建ての城だったようです」

・・・正直でよろしい(笑)。

関東の沼城に天守閣なんて無いだろ、と思いながら見ていましたが、場所も違うのか。


(説明板その2)


最初の説明板に戻って、騎西城のかつての地勢を確認。
本丸跡は、今は田圃のど真ん中です。


(説明板)

帰りにクルマで、本丸跡付近を眺めようとしましたが、残念ながら地形はよくわかりませんでした。

史実と合わない鉄筋コンクリート天守閣をつくるくるいなら、城の地形がわかるような保存をしてもらいたいなぁ、と思いますが、なかなかそうも行かないのでしょうね。

史実を無視した復元天守閣が無く、地形はかなり残されている城としては、我が岩槻城がその代表ですが、魅力的な城趾になっているかと言えば、疑問符がつきます。

パッと見では、騎西城の方が、「ここに城があった」というメッセージは明確。
城好きには嫌われる史実無視の鉄筋天守閣にも、町おこし的には意味があるのでしょう。

でも、もう少し地形を味わえるようにしてほしかったかな・・・


【参考】「上杉謙信、騎西城を攻める」の経緯
http://ameblo.jp/hamikara/entry-12015218717.html から

上杉謙信、騎西城を攻める