葛飾区青戸七丁目にあったと言われる葛西城。
我らが太田資正の時代には、関東公方・足利義氏がこの城に一時鎮座しました。それゆえ、足利義氏の奉公衆を務めた資正の次男・政景は、この城で元服しています。
(古くは、足利義氏が鎮座した葛西は鎌倉葛西谷のことである、と言われていましたが、近年の研究により葛飾区の葛西城であることが立証されたとのこと)
太田資正と葛西城の関わりは、それだけではありません。
太田資正の有力家臣の一人であり、同時に親類(姉婿)であった大石石見守は、かつては葛西城の城主であり、独立した領主でした。それが岩付太田氏の家臣となったのは、後北条氏(当時は北条氏綱が当主)と対峙し敗れたため。
大石石見守は、妻の実家である岩付太田氏を頼り、結果として家臣として仕えることになったようです。
北条氏に奪われた葛西城ですが、資正は一時的ながら、この城を奪い返しています。
長尾景虎(上杉謙信)の越山・関東遠征の際には、資正は安房の里見氏と連携して、北条方の城であった葛西城を攻め落としているのです。
この葛西城攻めに、大石石見守が関わったかどうかは、残念ながら定かではありせん。
太田資正との関わりが意外も深い葛西城。
今日は午後半休を使い、ちょっと立ち寄ってました。
※ ※ ※
■葛西城址公園
葛西城址公園 遠景
葛西城址公園
清々しいくらいに、かつての葛西城を偲ばせる遺構は見当たりません。
■御殿山公園
続いて、環七を挟んで対岸の御殿山公園へ。
御殿山公園
葛西城説明板
御殿山公園内の風景
「御殿山」という名称には、少し期待していました。
葛西城は「中川の滞積微高地上に築かれた城」とのこと。その“微高地”の痕跡が遺されているからこそ、「御殿山」という地名が今日まで残っているのではないか、と。
しかし、公園内には“微高地”を感じさせる盛り上がりは、無いことも無いのですが、「なるほどここに城があったのだな」と実感させてくれる程のものではありませんでした。
【追記(2015/2/16)】
文末に地形図「葛西城の位置関係③」を追加しました。
この地形図を見ると、葛西城が近郊の城である江戸城や国府台城と比べ、地形上傾斜による守りがほとんど存在しないことが分かります。
■中川
中川
葛西城址公園の程近くを、中川が流れています。
かつて戦国時代には、利根川が流れていた場所です。
葛西城は、江戸湾から旧・荒川や旧・利根川を遡り、関宿や古河までを結んでいた水運の要地。(戦国時代には、関宿や古河と同様、下総国に属していました)
水運との関わりだけは、今日の中川との近さから感じることができました。
※ ※ ※
太田資正の時代の面影をほとんど遺していない葛西城址。
かつては、関東公方が居城とした程の重要な城であったことを思うと、この「何にも残っていない」ぶりは、清々しいほどです。
しかし、多少期待していたので残念ではありましたが、何も遺されていないことが、逆に諸行無常を感じさせてもくれました。
【参考】
・葛西城の位置関係① 関東の主要な城と葛西城
・葛西城の位置関係② 太田資正の領国と周辺地域の城(含む葛西城)
我らが太田資正の時代には、関東公方・足利義氏がこの城に一時鎮座しました。それゆえ、足利義氏の奉公衆を務めた資正の次男・政景は、この城で元服しています。
(古くは、足利義氏が鎮座した葛西は鎌倉葛西谷のことである、と言われていましたが、近年の研究により葛飾区の葛西城であることが立証されたとのこと)
太田資正と葛西城の関わりは、それだけではありません。
太田資正の有力家臣の一人であり、同時に親類(姉婿)であった大石石見守は、かつては葛西城の城主であり、独立した領主でした。それが岩付太田氏の家臣となったのは、後北条氏(当時は北条氏綱が当主)と対峙し敗れたため。
大石石見守は、妻の実家である岩付太田氏を頼り、結果として家臣として仕えることになったようです。
北条氏に奪われた葛西城ですが、資正は一時的ながら、この城を奪い返しています。
長尾景虎(上杉謙信)の越山・関東遠征の際には、資正は安房の里見氏と連携して、北条方の城であった葛西城を攻め落としているのです。
この葛西城攻めに、大石石見守が関わったかどうかは、残念ながら定かではありせん。
太田資正との関わりが意外も深い葛西城。
今日は午後半休を使い、ちょっと立ち寄ってました。
※ ※ ※
■葛西城址公園
葛西城址公園 遠景
葛西城址公園
清々しいくらいに、かつての葛西城を偲ばせる遺構は見当たりません。
■御殿山公園
続いて、環七を挟んで対岸の御殿山公園へ。
御殿山公園
葛西城説明板
御殿山公園内の風景
「御殿山」という名称には、少し期待していました。
葛西城は「中川の滞積微高地上に築かれた城」とのこと。その“微高地”の痕跡が遺されているからこそ、「御殿山」という地名が今日まで残っているのではないか、と。
しかし、公園内には“微高地”を感じさせる盛り上がりは、無いことも無いのですが、「なるほどここに城があったのだな」と実感させてくれる程のものではありませんでした。
【追記(2015/2/16)】
文末に地形図「葛西城の位置関係③」を追加しました。
この地形図を見ると、葛西城が近郊の城である江戸城や国府台城と比べ、地形上傾斜による守りがほとんど存在しないことが分かります。
■中川
中川
葛西城址公園の程近くを、中川が流れています。
かつて戦国時代には、利根川が流れていた場所です。
葛西城は、江戸湾から旧・荒川や旧・利根川を遡り、関宿や古河までを結んでいた水運の要地。(戦国時代には、関宿や古河と同様、下総国に属していました)
水運との関わりだけは、今日の中川との近さから感じることができました。
※ ※ ※
太田資正の時代の面影をほとんど遺していない葛西城址。
かつては、関東公方が居城とした程の重要な城であったことを思うと、この「何にも残っていない」ぶりは、清々しいほどです。
しかし、多少期待していたので残念ではありましたが、何も遺されていないことが、逆に諸行無常を感じさせてもくれました。
【参考】
・葛西城の位置関係① 関東の主要な城と葛西城
・葛西城の位置関係② 太田資正の領国と周辺地域の城(含む葛西城)
・葛西城の位置関係③ 江戸城や国府台城との位置関係
・葛西城の位置関係④ 戦国時代の川筋と葛西城